隠すこと無し
『論語』に「二三子、我れを以って隠せりと為すか。吾れは爾(なんじ)に隠すこと無し」という句があります。
岩波文庫の金谷治先生の訳によると
「諸君、私が隠しごとをしていると思うか。わたしは隠しだてなどはしない」という意味です。
今北洪川老師は、『禅海一瀾』の中でこの言葉を用いて禅の教えを説いてくださっています。
こんな逸話を引用されています。
黄山谷が晦堂祖心禅師に参禅されていたときのことです。
黄山谷は学者としても名高い方でした。その黄山谷に晦堂禅師はこの論語の言葉の意味を問いました。
難しいことではありません。黄山谷はすらすら解説されました。
しかし、晦堂禅師はそれをよしとしません。もう一度説明させますがそれでもよしとはされませんでした。
黄山谷はさすがに怒ってしまいました。私の説明のどこがいけないのかと。
ちょうどそのとき、折しも夏の終わりで涼しい風が吹いてきて、木犀の香りが寺いっぱいに香ってきました。
そこで、晦堂禅師は黄山谷に「あなたには木犀の香りがわかりますか」と問います。黄山谷は「はい、香りがします」と答えます。
そこで晦堂禅師は「私はあなたに何も隠してはいない」と言われました。
この一言で黄山谷もハッと気がついたという話です。
黄山谷は頭の中で知識として、「吾れ爾に隠すこと無し」と理解していても、
その隠すことのないものが何であるか、実感出来ていなかったのでしょう。
洪川老師は、『孟子』の「道は近きにあり、却って之を遠きに求む。事は易きにあり、却って之を難きに求む」の一語を引かれています。
真理は、実は間近にある、ところがこれをかえってどこか遠くにあると求めてしまう、
真実は簡単であるのにかえって難しくしてしまっているというのです。
「道は近きにあり」です。遠くに出掛けなくても、真理は近くにあります。
そして「隠すこと無く」現れているのです。
釈宗演老師はその講話の中で、今眼に映じており、耳に響いておりこの一切の現象は、すばらしい仏心の中のものであると説かれています。
今もっとも身近なものに目を向けてみましょう。心を向けてみましょう。
吾れ爾に隠すこと無し。
横田南嶺