苦にしない生き方
お天気のよい午前中に防災無線が鳴っていました。
なんの事かなと思って聞いていると、なんと、
「鎌倉市内で、新型コロナウイルスの感染が増えています。
観光やレジャーの方は、お帰りください。
みなさんの命を守るため、また、医療の崩壊を防ぐため、外出の自粛をお願いします。」
という内容でした。
今は「観光の方には帰ってください」とお願いしなければならない状況なのです。
円覚寺でも拝観を中止させてもらっているところです。
管長に就任して十年来、多くの方にお参りいただけるように努力してきました。
ことに東日本大震災の後は、寺を開放することに努めてきました。
それが、お参りできなくしなければならないのですから、申し訳ない思いでいっぱいであります。
しかしながら防災無線を聞いて、改めて今の状況を受け入れないといけないと言い聞かせています。
「まさか」と思う事が実際に起こるのです。
今は試練の時、じっと耐える時と思うしかありません。
そんなことを思っていて、正岡子規の『病牀六尺』を繙くと、「あきらめる」ということについての記述がありました。
たんにあきらめるだけではまだ十分ではなくて、あきらめる以上のことがあるというのです。
こんな譬え話を用いています。古い文体ですので、現代文に要約して記します。
「ここに一人の子供がいるとします。
その子供に、親が健康の為に灸をすえてやることになりました。
(漢方の療法です。もぐさを肌において火をつけるもの。治療や健康維持の為で、いじめや折檻ではありません)
その場合、子供は灸をすえるのはいやだと、泣いたり逃げたりするのは、あきらめがまだついていないのです。
もしまたその子供が、もはや逃げるにも逃げられぬ場合だと思って、親の言う通りにおとなしく灸をすえてもらいます。
これはすでにあきらめたということです。
しかしながら、その子供が灸の痛さに堪えかねて、灸をすえる間は絶えず精神の上に苦悶を感じるならば、
それはわずかにあきらめたのみであって、あきらめるより以上の事は出来ていないのです。
もしまたその子供が親の言う通りにおとなしく灸をすえさせるばかりでなく、
灸をすえる間も何か書物でも見るとか、自分でいたずら書きでもしているとか、
そんな事をしていて、灸の方を少しも苦にしないというのが、あきらめるより以上の事をやっていることになるのです。」
という内容です。
大変だからじっと耐え忍んでいるというのは、あきらめたということでしょう。
しかしながら、じっとしていながら、部屋でできることをさがして、少しも苦にしないというのが、
あきらめる以上のことをしているのだということです。
「がまん、がまん、辛抱、辛抱」ばかりだと人間は耐えられません。
そこに少しでも楽しみを見つけたいものです。
子どもがじっとしていながらもこっそりいたずら書きでもするような楽しみをです。
苦を避けることはできないにしても、苦にしない生き方はできるものです。
今の状況でも、苦にしない生き方を見出したいものです。
横田南嶺