無力
東日本大震災の時にも、無力感を味わいました。
あの大惨事が起きて、自分は何もすることができないという無力感です。
それまで、多少は禅堂というところで坐禅して、何かをしてきたつもりでいましたが、全くお役に立つことができないのでした。
それでも、被災地に赴いたり、法話や講演、追悼の為の祈りなどを行ってきました。
今回の新型コロナウイルスの件も同じく無力感を味わいます。
今度は、坐禅会も講演会も法話もできないのです。
ただ、どこにも行かずにじっとしているのでは、実に全くお役に立ちません。
そんな無力感を味わいながら、ホスピス医の小澤竹俊先生の
『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』
という本を開いていました。
その中に、無力について書かれている章がありました。
どんな治療を施したとしても、最後は死を迎えます。
死にゆく人に対して、その苦しみを和らげることができない、小澤先生も無力である事を痛感なさったそうです。
そんな苦悶を抱いていて、先生は、
長い間、「自分は無力である」という思いに苦しんだ果てに、私はようやく「無力でよいのだ」と気づきました。
それまで私は、「医者である以上、患者さんの役に立たなければならない」と思っていました。
……ですが、医者といえども、しょせんは弱い生身の人間であり、できることには限界があります。
本当に大事なのは、「患者さんの問題をすべて解決すること」ではなく、無力な自分を受け入れ、医者としてではなく一人の人間として、「患者さんに関わり続けること」である。」
と気がつかれたのでした。
すばらしい気づきであります。
そして、その章の最後に先生は、
どうか「無力な自分」を責めないでください。
人は誰でも、そこに存在しているだけで、誰かの支えになることができるのです。
また、「自分は無力である」という苦しみからも、必ず学べることがあるはずです。
その苦しみとしっかり向き合ったとき、
人は「たとえ何もできない自分でも、生ていてよいのだ」と考えられるようになるのではないかと、私は思います。
と述べられています。
この本などは、何度も読んではいるのですが、やはりその時々によって受け取り方が変わってきます。
今の私などは、まったくの無力でありますが、はたしてどなたかの支えになっているのであろうかと自問します。
それでも、いなくなったら、それはまた大変な迷惑をかけますので、いることにも意味ありと自ら言い聞かせています。
野に咲く花をみると、そこに咲くだけで、そこにいるだけで、無力のように見えて、大きな力があると学ぶ事ができます。
横田南嶺