どんな悲境に沈みても
知人から、お葉書をいただいて、そこに和歌が書かれていました。承諾を得ないままに紹介させていただきます。
現し世が
どんな悲境に 沈みても
季節は移ろい
咲く山桜
山桜というと
さざなみや 志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな
という古い『千載集』にある平忠度の和歌を思い出したり
あれをみよ みやまの桜咲きにけり まごろこつくせ 人知らずとも
という、松原泰道先生に教えていただいた和歌を思い出します。
いよいよ、緊急事態宣言が発令されました。
私の知人がコロナウィルスの検査で陽性となり、入院したという知らせもうけました。
イギリスの首相が、病状悪化して集中治療室に入ったとか、首相は私と同年ですので、自分の年代も感染したら大変なことになるなと感じています。
ヒタヒタとコロナウィルスが身近に迫ってきているように思われます。
罹患した知人と直接話はできませんが、洩れ聞くところでは、その家族が周囲から白い目で見られたり、子どもがいじめられないか心配しているということでした。
日本人は精神論が好きなので、たるんでいるから風邪をひくのだと言ったりします。
しかし、ウィルスの感染などは致し方のないことです。
原発の事故の折りに放射能の差別問題がありましたが、同じような過ちを犯してはなりません。
ウィルスが人間を襲っているのだという思いを抱くのかもしれませんが、ウィルスから見れば、人間というちょうどいい生活環境があるだけのことでしょう。
大きな目でみれば、「自然現象」のひとつに過ぎないと思います。
「国難」という言葉も耳にするようになりました。
「国難」などというと、何百年か、せめて何十年に一度であってほしいものですが、東日本の大震災からまだ十年経たぬうちに「国難」とは酷な気がします。
それでも「緊急事態宣言」が発令されるという私などの経験したことのない状況になっているのは確かです。
大災害と同じなのだとも言われます。しかしながら、大災害であれば、崖が崩れたり、家が傾いたり、目に見えるのですが、今回は目に見えません。
山桜は変わらないし、建物も町なみも変わることはありません。
ただ人と人との出会いがよくないと言われています。
人は一人では生きられない、誰かとつながりあってこそ生きられると、私なども話をしてきました。
それがよくないと言われるのですから、やはりたいへんな事になっているのだと思います。
手元にある『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』という本を開いてみました。
この本は、ホスピス医の小澤竹俊先生が四年前に出された本ですが、その題名がいいので、いつも表紙が目につくところに置いているのです。
そのなかに、こんな一節がありました。
「地震や火事といった災害に遭遇したとき、何らかの事件に巻き込まれたとき、自分あるいは家族が病気や怪我をしたとき、「人生最後の日」を意識したとき。
人はいやおうなく、非日常の世界に連れていかれ、それまでの日常を振り返ります。そしてようやく、自分が多くのものを手にしていたことに気づき、感謝するようになるのです。」
今の時期に読んでみるとその通りだなと思うのです。
その章の終わりには、
「食事がとれること、布団でぐっすり眠れること、大事な人といつでも会えること、電気やガスがつくこと……。
特別なことはなくとも、ふだん当たり前に過ごしている日常が、いかに輝きに満ちた、かけがえのないものであるかがわかるはずです。」
とあります。
この中の、「人と会えること」が今制限されているのですが、それ以外にも、変わらずに山桜が咲いていること、
屋根がある家で休めること、ぐっすり眠れる布団があること、蛇口をひねれば水がでること、有り難いことはたくさんあります。
もちろんのこと、新型コロナウィルスに感染しないように、消毒手洗いなどはこまめにすべきですが、感謝することも大切にしたいものです。
感謝していると、きっと免疫力もあがると思います。
横田南嶺