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臨済宗大本山 円覚寺

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2020.04.10
今日の言葉

無力

東日本大震災の時にも、無力感を味わいました。

あの大惨事が起きて、自分は何もすることができないという無力感です。

 

それまで、多少は禅堂というところで坐禅して、何かをしてきたつもりでいましたが、全くお役に立つことができないのでした。

それでも、被災地に赴いたり、法話や講演、追悼の為の祈りなどを行ってきました。

今回の新型コロナウイルスの件も同じく無力感を味わいます。

今度は、坐禅会も講演会も法話もできないのです。

ただ、どこにも行かずにじっとしているのでは、実に全くお役に立ちません。

 

そんな無力感を味わいながら、ホスピス医の小澤竹俊先生の

『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』

という本を開いていました。

 

その中に、無力について書かれている章がありました。

どんな治療を施したとしても、最後は死を迎えます。

死にゆく人に対して、その苦しみを和らげることができない、小澤先生も無力である事を痛感なさったそうです。

 

そんな苦悶を抱いていて、先生は、

 

長い間、「自分は無力である」という思いに苦しんだ果てに、私はようやく「無力でよいのだ」と気づきました。

それまで私は、「医者である以上、患者さんの役に立たなければならない」と思っていました。

……ですが、医者といえども、しょせんは弱い生身の人間であり、できることには限界があります。

本当に大事なのは、「患者さんの問題をすべて解決すること」ではなく、無力な自分を受け入れ、医者としてではなく一人の人間として、「患者さんに関わり続けること」である。」

 

と気がつかれたのでした。

 

すばらしい気づきであります。

そして、その章の最後に先生は、

 

どうか「無力な自分」を責めないでください。

人は誰でも、そこに存在しているだけで、誰かの支えになることができるのです。

また、「自分は無力である」という苦しみからも、必ず学べることがあるはずです。

その苦しみとしっかり向き合ったとき、

人は「たとえ何もできない自分でも、生ていてよいのだ」と考えられるようになるのではないかと、私は思います。

 

と述べられています。

この本などは、何度も読んではいるのですが、やはりその時々によって受け取り方が変わってきます。

今の私などは、まったくの無力でありますが、はたしてどなたかの支えになっているのであろうかと自問します。

それでも、いなくなったら、それはまた大変な迷惑をかけますので、いることにも意味ありと自ら言い聞かせています。

野に咲く花をみると、そこに咲くだけで、そこにいるだけで、無力のように見えて、大きな力があると学ぶ事ができます。

横田南嶺

無力

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