最善観
森信三先生の『修身教授録』を、僧堂の雲水たちと読書会をして学んでいます。
昨晩は、「最善観」の一章を学びました。
「最善観」とは聞き慣れない言葉ですが、森先生の言葉によると、
「いやしくもわが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然である共に、またこの私にとっては、最善なはずだ」
という考えです。
森先生は、
「私自身の人生に対する根本信念の一面と言ってよい」
と仰せになっているように、大切な教えであります。
森先生の解説によると、
「そもそもこの最善観という言葉は訳語でありまして、西洋の言葉では、オプティミズムという言葉がこれに相当しましょう。
通例は、これを「楽天観」とか「楽天主義」と訳するのが普通ですが、哲学のほうでは、これを「最善観」というのが普通になっています」
というのです。
楽天主義などというと、のんきなもののようにも聞こえますが、決してそうではありません。
自分の身の上に降りかかってるくる、いかなる事も、たとえどんな辛く苦しいことであろうとも、
「それに対して一切これを拒まず、一切これを却けず、素直にその一切を受け入れて、
そこに隠されている神の意志を読みとらねばならぬわけです」
というのですから、容易ではありません。
そうして、
「自己に与えられた全運命を感謝して受け取って、天を恨まず人を咎めず、
否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命、すなわち天命を信ずるが故に、天命を楽しむという境涯です」
とまで、到らねばならないものなのです。
こうした姿勢を、森先生は
「私には、人間の真の生活態度が、どうしてもこの外にはないように思われるのです」
と仰せになっています。
禅の教えは、どんな教えの中にも見出すことができると、小欄でも書いたように、何を学んでも、そこから禅を学ぶことができるのです。
神の真意という表現に抵抗があるならば、天地自然の道理と受けとめたらいいでしょう。
森先生は、
「人生の事はすべてプラスがあれば必ず裏にはマイナスがあり、表にマイナスがあれば、裏にはプラスがある」
として、すべて陰と陽とで成り立っていると説かれます。
今、不幸な目にあっていても、必ずその分の幸せが訪れるのです。
今大変な目にあっていると思っていても、その経験はきっと大きな意味を持ってくるのです。
僧堂の雲水たちにも、今大変だと思っても、必ず意味があり、そして必ず良いことも訪れるのだと話しました。
実に私如きわずかなる人生経験から申し上げても、僧堂の修行は大変ですが、その後の師家に就任した頃の苦労はそれ以上でした。
管長になっても苦労はつきません。しかしその分、幸せに恵まれるのです。
その証拠が、なんといっても今のこの時代に、二十名もの若い雲水たちと毎日坐禅して、『修身教授録』を学んだりすることができるのです。
これが、思いもよらぬご褒美なのであります。
今大変だと思っても、それは幸せの種を蒔いているのだと話をしたのでした。
横田南嶺