どんな教えにも禅が
鈴木大拙先生の言葉に、
「禅は、必ずしも仏教徒の思想と生活の源泉であるにとどまらない。
それはキリスト教の中にも、回教の中にも、道教の中にも、そしてまた実証主義的な儒教の中にさえも、多分に生きている。
これらの宗教や哲学がみな、活力に満ち、精気にあふれて、その有用性と効力とを保持しているのは、
その中に「禅の要素」とでも呼ぶべきものが存在するからである。」
というのがあります。
禅のおいては、他の宗派のように所依の経典を持たないと言われています。
バイブルのような特定の経典をもたないのです。
さらには、「不立文字、教外別伝」というように、文字によらず、経典などとは別に心を伝えると言います。
それだけに、どのような教えの中にも禅の教えが生きていて、そこから禅の教えを学ぶことができるのです。
よく坂村真民先生の詩を引用させてもらいますが、
真民先生の場合は、禅を深く学ばれていますので、その詩から禅の教えを学ぶことができるのは、当然といえば当然でありましょう。
しかし、なにも特別禅を学んでいなくても、その言葉から禅の教えを学ぶことが可能なのです。
この頃、まど・みちおさんの詩集を読んでいます。
こんな詩がありました。
「ぼくがここに」という題です。
ほくがここに
ほくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない
という一節で始まります。
私が、今ここにいるときは、他の誰も、他の何者も、この私の場を私に重なって占めることはできないというのです。
つまり、いまここに私がいるということは、かけがえのない私だけのであります。
その詩の最後には
ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに
いるときにも
その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として
とあります。
私が、いまここにこうしているこということは、他の誰にもできないし、
そしてこの地球の上では、どれだけ多くの力に守られているかはかりしれません。
そう気がついてみれば、いまここに「いること」が、なににもまして素晴らしいことだというのです。
まさに、今ここにこうしていることが、どんなに素晴らしいことか、
どんなに多くの力に守られているか、しみじみ味わい感じるのです。
ゆったり坐って、静かに呼吸して、いまここにいることの素晴らしさ、ありがたさをしみじみと味わう、そんな坐禅をしたいものです。
まど・みちおさんの詩からも禅の教えを学ぶ事ができます。
横田南嶺