「おれが、おれが」
鈴木大拙先生の著書『禅の思想』を繙いています。
達摩大師の著と伝えられる『安心法門』という書物について解説されています。
そのなかに、こんな問いと答えが載っています。
問。世間の人々はいろいろと学問をしているが、それでも道を得るということが、なかなか、できない。それはなぜか。
答。それは自己というものを見ているからである。自己とは我である。
「おれが、おれが」というその我である。至人は苦楽の境に処しても別に憂いも喜びもしない。
それは自己を見ないからである。苦楽があっても、それを自己中心主義の立場から見ないからである。
自己を忘じたのである。
無の境地を了得したものは、どんな環境におかれてもそれにとらえられるようなことはないのである。
というものです。
菩提達摩大師は六世紀の初めころに、インドから梁の国に来て仏法を説かれました。
この教えが発展して二百年ほど後に、慧能が唐代に出られて、禅の教えが明確になってゆきました。
『安心法門』から引用した所は、最初期の達摩大師の教えを説かれたものの一節ですが、実に端的で明快であります。
「おれが、おれが」という自己中心主義の立場でものを見ているので、いくら学問をしても道を得ることができないというのであります。
修行しても同じことです。
いくら長年坐禅しようが、この「おれが、おれが」という自己中心主義のものの見方から離れていなければ、結局自我を増長させるだけになってしまいます。
何年修行したなどということを競っても仕方ありません。問題は自己を忘じているかどうかの一点なのです。
なかなか、容易にはゆかないものです。
横田南嶺