惑いも悩みも
講演の為上京した折に、珍しく少し空き時間ができたので、ぶらりと古書店に立ち寄りました。
いつも時間ギリギリに行動することが多い中で、ホッとする一時でした。
古本屋に入ると、なんとなく心が落ち着きます。
古書の香りもなんともいえません。
歴史、文学、そして哲学宗教の棚へと足を進めて、本を眺めていました。
ふと『金子大栄随想集 解けゆく心』という本が目に入りました。
金子大栄先生は、浄土真宗の方でいらっしゃいますが、私は学生の頃から、よく著書を読んでいたものです。
懐かしいなと思い、また本の装丁も落ち着いたあじわいのあるものでありましたので、買ってきました。
ぱらぱらと開いてみていると、こんな言葉が目に止まりました。
「いかなる道にてもあれ、その法を一心に求むるものには、終生、惑いもあり悩みもある。
そして、それゆえにまた進展ということもあるのである。
その惑いと悩みとのなきものは、かえって身証のないものであるということである。」 と。
禅では、からりと悟りを開いて、執着のない世界を説きますが、
浄土の教えでは、人間の赤裸々な悩みや惑いを素直に見つめます。
こんな金子大栄先生の言葉にホッとするものを感じます。
上京した翌日には、円覚寺派の宗議会でした。
なんと気がついたら、管長の職を既に二期十年を満了したことになるとのこと。
議会においては、「どうぞ、三期目は、もっと勝れた方にお願いを」と申し上げたのですが、会議の結果三期目もまた私が引き受けることに決まってしまいました。
就任した時もそうでしたが、十年勤めてもなお、私如き者でいいのであろうと、「惑いもあり悩みもあり」なのであります。
ですから金子大栄先生の言葉には、救われる気持ちがするのです。
はたしてまだ「進展」は望めるでしょうか……
横田南嶺