今日の言葉
如来はあほう?
『盤珪禅師語録』の中に、「自分は悟りを求めて修行しています」というある僧に、禅師が答えているところがあります。
盤珪禅師は、人は皆仏の体を持っているので、一点も迷いもない、迷いが無いならば、なにも悟りを求めることもない と答えています。
それに対して、僧は、それではあほうになってしまうのではありませんか と尋ねます。
それに対して、盤珪禅師は、「如来はあほうにして」と答えているのです。
如来を「あほう」とは、とんでもないことのように聞こえます。
たしかに「あほう」とは、愚かであること、ばかなこと と辞書に書かれていますが、この場合の「あほう」は、「無分別」のことを言っています。
悟りだ迷いだと分けることをしないのです。
分かるということは、尊いことでもありますが、分けることによって、比べることが起きます。
良い、悪い、きれい、汚い、分けて比べてしまいます。
分けて比べることによって、悩みが起こり、そこから苦しみが生じます。
分けて、比べて、悩み苦しむということになるのです。
その分けるということをしない「無分別」を、ここで「あほう」と言っています。
無分別は、比べないことであり、安らかで満ち足りた世界をもたらします。
だからこそ人を救うことができるのです。
盤珪禅師が、「如来はあほうに人を済度す」と仰せになっている所以であります。
横田南嶺