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臨済宗大本山 円覚寺

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2020.02.18
今日の言葉

如来はあほう?

『盤珪禅師語録』の中に、「自分は悟りを求めて修行しています」というある僧に、禅師が答えているところがあります。

盤珪禅師は、人は皆仏の体を持っているので、一点も迷いもない、迷いが無いならば、なにも悟りを求めることもない と答えています。

それに対して、僧は、それではあほうになってしまうのではありませんか と尋ねます。

それに対して、盤珪禅師は、「如来はあほうにして」と答えているのです。

如来を「あほう」とは、とんでもないことのように聞こえます。

たしかに「あほう」とは、愚かであること、ばかなこと と辞書に書かれていますが、この場合の「あほう」は、「無分別」のことを言っています。

悟りだ迷いだと分けることをしないのです。

分かるということは、尊いことでもありますが、分けることによって、比べることが起きます。

良い、悪い、きれい、汚い、分けて比べてしまいます。

分けて比べることによって、悩みが起こり、そこから苦しみが生じます。

分けて、比べて、悩み苦しむということになるのです。

その分けるということをしない「無分別」を、ここで「あほう」と言っています。

無分別は、比べないことであり、安らかで満ち足りた世界をもたらします。

だからこそ人を救うことができるのです。

盤珪禅師が、「如来はあほうに人を済度す」と仰せになっている所以であります。 

横田南嶺

如来はあほう?

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