場所ふさぎ
森信三先生の『修身教授録』の読書会を、僧堂で夜の参禅のあとに行っています。
読書会のやり方は、寺田一清先生にご教示いたいだたい形式で、はじめしばし立腰で姿勢を調えて、各自一段落ずつ声にだして本文を読みます。
そうして一章を読み終えたなら、各自が感動した言葉とそれに対しての自身の感想を発表します。
最後に私が講評するというものです。
昨晩読んでいた章の中に、森先生が、
「人間というものは、お互いに自惚れ心の強いものですから、自分ではそうとうお役に立っているつもりでも、これを外から見ればまったく場所ふさぎに過ぎないということにもなるのです。」
と仰せになっているところがありました。
私は、この一文に注目して、自身を反省しました。
少々努力して、すこしはお役に立っているのかなと思う程度では、単なる場所ふさぎでしかないのでしょう。
まして況んや、現状維持で精一杯だなど思っているようでは、場所ふさぎどころか、はた迷惑になっているのだと思います。
いつもながら森先生のご指摘は鋭いものです。
もう既に場所ふさぎになっていはしまいか、我が身を反省します。
また、組織においては、自分がいなければ組織が駄目になるなど、思っていると、たいていその人が一番組織の弊害となっている場合も多いのが現実です。
自己を客観的に見るということは難しいことです。
それにもまして驚くことは、僧堂の修行僧たちは、『修身教授録』を読んでも、これは森先生が教師になる学生の為に説かれたものなので、全く自分には関係のない書物のように受け取っているのでした。
僧侶というのは、仏法を教えてゆく「教師」なはずなのです。
お寺の後を継いでお経をあげていればいいと思っているようで、僧侶は「教師」でもあるという自覚がないのでした。
これでは、お寺を継いでも単なる場所ふさぎになってしまうことは必定です。
横田南嶺