華厳の話
華厳の教えというのは、学ぼうとすると用語が難しく、教学としても煩瑣なもので、分かりづらいという一面があります。
司馬遼太郎さんの『十六の話』の中に、華厳についての記述があります。
「華厳思想にあっては、一切の現象は孤立しない。
孤立せる現象など、この宇宙に存在しないという。
一切の現象は相互に相対的に依存しあう関係にあるとするのである。」
と書かれています。
すべての現象は孤立していなく、関わりあっているのです。
その様子は、たとえて言えば
「沙漠は、一粒ずつの砂でできあがっている。
その一粒の砂の中にも、生成されたいきさつがあり、またそれが構成されている成分がある。
その一粒の砂の内部から、たとえばタクラマカン沙漠そのものを感ずることができるし、
さらには、宇宙までがその一粒の中に入りこんでいることを知覚することができる。」
と示されています。
一粒の砂にしても、その生成の歴史があるのです。砂漠全体いや大宇宙が関わりあっているのです。
これを「一即多」と言います。
更に
「ときにその砂に崑崙の水が加わると、植物をそだてさせる。
さらにはその植物を人や家畜が食べるといった具合に、因縁が構成され、それが縁起をおこし、さらに他の因果を生む。
重々無尽、事々無礙。精妙にしてやむことがない。」
と表現されています。
奈良の大仏様が、盧舎那佛であって、華厳の仏さまです。
それは千枚の蓮弁の上に坐っておられます。(実際には東大寺の大仏は、五十六枚だそうですが)
その一枚の蓮弁には、お釈迦さまが鎮座されており、そのお釈迦さまがまた千枚の蓮弁に坐っておられます。
そのまた一枚の蓮弁にも、百億もの仏の世界が広がっているといいます。
その百億の仏の世界にも、それぞれにお釈迦さまが一人ずつ鎮座されているといいます。
そのように重々無尽の構造を表現されています。
そうしたお互いに関わりあった世界全体が真理を現していると説いています。
お互いに関わりあい、一瞬一瞬変化し続けている全体が毘盧遮那仏なのです。
毘盧遮那仏の世界では、すべての存在が光り輝いているというのです。
華厳の教学は難しくても、華厳的な物の見方は、今の時代には大事だと思います。
横田南嶺