時宗公の苦悩
俳人の長谷川櫂先生は、昨年三井記念美術館で建長寺の蘭渓道隆禅師や、円覚寺の無学祖元禅師の彫像をご覧になって、釈迦如来や地蔵菩薩などの仏像がみな安らかな面持ちであるのに対して、
「生身の禅僧たちの顔はみな苦悩の表情をたたえていた。」
と述べられていました。
無学祖元禅師などは、
「執権・北条時宗の招きで中国から来日したのが五十三歳、鎌倉で亡くなるのが六十歳。
生涯、日本語が話せなかった。時宗とは筆談を交わし、法話には通訳がたったという。
東アジア中華文明の中心である南宋から、言葉も通じない辺境の鎌倉へ。
彼の目には滅びゆく南宋も海の彼方の日本も、同じ人間の苦悩の大海と映っていただろう。」
と、昨年の読売新聞に書かれていました。
無学祖元禅師は、時の執権北条時宗公に招かれて来日し、時宗公に禅の指導をなされました。
時宗公は十八才で執権に就任し、二十四才で文永の役、三十一才で弘安の役を迎え、わずか三十四才で亡くなっています。
まさに元寇の為に生まれてきてお亡くなりなった生涯といってもいいでしょう。
参禅の指導をされた無学祖元禅師が、苦悩の表情を浮かべていたのですから、国の大事を背負う時宗公のご苦労は察するに余りあります。
弘安の役の折には、金剛経などを血で写経しています。元寇のあとには、千体の地蔵を造って円覚寺に奉納し、無学祖元禅師にお説法をお願いしています。
後には、「相模太郎、胆甕の如し」と詠われて、いかにも腹の据わった人物として描かれていますが、実際には苦悩され続けていたと思うのです。
血で写経されたのも、千体の地蔵を造って供養されたのも、その裏には言葉で言い尽くせない苦悩があるように感じ取れます。
腹が据わって微動だにしないというよりも、苦悶しつつ生涯を終えられたように思われます。
そんな苦悩の中で参禅し、無学祖元禅師が心の支えになっていたのだと思います。
(一月三十一日鎌倉禅研究会での講演より)
横田南嶺