外に求めないからこそ
臨済禅師は、銘々お互いに、仏さまの清らかなる智慧、無分別なる智慧が具わっていると説かれました。
そしてそれは、外に求めまわらないからこそ、すばらしいはたらきを発揮するのだと説いています。
ということは、外に向かって求めると、心の素晴らしい清らかな智慧や、無分別なる智慧が発揮されないということになります。
どうしてなのか、法華経の譬え話で見てみると分かりやすいと思います。
長者の子供が、自分が長者の子であり、インドで一番の財産を相続する身でありながら、そのことに気がつかずにさまよっているという長者窮子の譬え話です。
長者の子が、自分は長者の子であると気がつけばそれでいいのです。
ところが、気がつかずに、いつまでも、街をさまよい歩き、わずかばかりの賃金を求めていては、素晴らしい財産を相続することなど分からずじまいです。
そこで、街をさまよい歩き、わずかばかりの賃金を求めるようなことをやめて、自分を見つめるのです。
あるいは、衣裏繋珠の譬えも同じことです。
衣の裏に、素晴らしい宝珠を縫い付けてもらっています。
その珠ひとつで一生涯暮らすに困らないほどの宝です。
ところが、そのことに気がつかずに、街をさまよっているのです。街を歩いては、わずかな賃金を求めています。
そんな賃金をいくら集めても到底及びもつかぬ素晴らしい財宝を、衣に縫い付けてもらっているのです。
そこで、街をさまよい、賃金を求めてまわることをやめて、静かに落ち着いて自分自身を見つめると、素晴らしい宝珠に気がつくことができます。
坐禅は、この外に求めまわる行為をやめる営みです。
いくら本を読んで得た知識でも、自己本来に具わっている智慧の素晴らしさには到底及びもつかないのです。
ところがいつまでも、外に何か素晴らしいものがあると思って求めているうちは、気がつかないのです。
あれこれ求めることをやめる、目でものを見ようとすることをやめる、耳で聞こうとすることもやめる、そうして本来具わっているはたらきにだけ、静かに心を向けてみます。
何もしようとしなくても呼吸している、何もしようとしなくても音が聞こえている、こんなところに、素晴らしいはたらきがあるのです。
外に求めないからこそ気がつくことができます。
静かに坐ってみましょう。
(雪安居制末大摂心提唱より)
横田南嶺