大般若転読
禅宗では、ふだんあまり祈禱ということをいたしませんが、お正月の三が日は、大般若経の転読を行って祈禱をいたします。
大般若経は、全部で六百巻ある大部の経典です。
全部を読誦していると膨大な時間がかかります。
そこでいつの頃からか、経題を読み上げ、中の一部を読んで、あとはパラパラと広げて最後に「降伏一切大魔最勝成就」と唱えて読んだこととしているのです。
これを転読と申します。
どこの禅寺でも行っている祈禱であります。
円覚寺でも正月三が日、開山堂と大方丈に於いて一山の和尚様方と僧堂の雲水たちで大般若転読をして祈禱を行っています。
その転読している際に、唱える言葉があります。
般若心経の最後の呪を唱えることもありますが、下記の偈文を唱えています。
「諸法皆是因縁生
因縁生故無自性
無自性故無去来
無去来故無所得
無所得故畢竟空
畢竟空故是名般若波羅蜜」
というものです。
意訳しますと、
すべての存在は、皆様々な原因や条件によって起こるものである。
条件によって生じるので、それ自体変わることのない自性というものはない。
自性がないので、去るとか来るということもない。
去ることも来ることもないので何かを得るということもない。
何も得るものもないので、結局は空というほかない。
結局空なのでこれを般若波羅蜜―智慧の完成―と名づける。
というところです。
この偈文には、大般若経六百巻の教えが凝縮されています。
すべては、条件によって起こるもの、何も得るものもないと思う事ができれば、随分と気が楽になります。
祈禱というと、何か願い事をかなえてもらって、得るものがあるようにと祈っているように思われますが、祈禱している方は、何も得るものはないと唱えていることになります。
不思議なものです。
しかし、それでも有り難い功徳があることを念じて、三日間にわたり祈禱したお札を、四日から信者さんたちに配ってまわるのであります。
そのような、人の営みすべてが、大きな仏さまの眼から見れば畢竟は空なのでありましょう。
空と知りつつ、それでも一心に祈り願うのであります。
世の平和を、人の幸せを。
横田南嶺