無用の木
円覚寺の中興である大用国師は、誠拙周樗と申し上げます。
周樗の「樗」とは、にわうるしとも言い、古来役に立たぬ木とされてきました。
『荘子』の中に、「樗」の話が出てきます。
「樗と呼ばれる大木があって、その太い根元は節くれ立って墨縄の当てようがなく、
小枝はかがまって定規にかからない。
道ばたに立っているのだが、通りかかる大工は振り向きもしない」というのです。
要するに無用の木なのです。
『荘子』では、「そんな木は無用なるが故に、用材として伐採されることがない。だから大木になる、
そんな大木の傍らでぶらぶらと無為に過ごし、その木の下で悠々と昼寝でもしたらどうか」と説かれています。
舎利殿の裏山が、昨年の台風で、一部崖が崩れて、
その後危険木の伐採など、次の災害を生じないようにしてきました。
今年の台風の前にも、あらかじめ危険な木は伐採していました。
そんな作業の中で、一本の大木で、枝がくねくねと曲がって、見るからにどうしようもない木がありました。
職人さんと、あの木は伐るしかありませんねと話しあっていたのでした。
しかし、その木を伐採できずに、今年の台風が来てしまいました。
するとどうでしょうか、まわりの杉の木が何本も倒れてしまう中で、
その無用の木と思われた大木は持ちこたえて、
しかも他の倒れかけた杉の木を支えているのです。
もし、その木が支えていなければ、
御開山の塔所に杉の木が倒れて被害が出ていたことでしょう。
枝もくねくね曲がって伸びて、一番危ないと思われた木が持ちこたえて、
他の倒木を支えてくれている姿には、こちらも頭が下がりました。
何の役にも立たぬと思っていても、何年に一度か、あるいは何十年に一度か、
危機のときに役立つことがあるのです。
「無用」だと思うのは、こちらの勝手な憶測に過ぎません。
「無用」が大いに力を発揮することもあるのです。
人間もまた、然り。
しょうがないなと思っていたとしても、そんな人が大いに力を発揮することがあるのでしょう。
普段役に立っていると思っているものが役に立たなくなり、役に立たないと思っているものが役立つこともあるのです。
誠拙禅師は、自ら周樗と名乗り、また無用道人と号しながらも、
お亡くなりになってから「大用国師」と諡号を賜ったのも奥深い話であります。
舎利殿の裏山の台風のあとを見ながら思ったことでした。