愚にかえる
五祖法演禅師の語録の中に、興味深いことが説かれています。
仏になろうと修行している時は、愚から賢になろう努力する、
仏になったあとは、賢から愚になるのだという意味のことです。
たしかに修行しようという時には、愚かさを少しでも減らしゆこうと、
様々なことを習得して、学びを積み重ねて努力します。
しかし、それだけでは十分ではなくて、こんどは、学んだことを減らしていって、愚になるのだというのであります。
「小憨(しょうかん)、大憨(だいかん)に如(し)かず」という言葉で表しています。
小賢しいよりも、馬鹿者がいいとでも言いましょうか。
ことわざにも、「賢は愚にかえる」というのがあります。
すぐれた人は、才能をひけらかしたりしないので、平生は愚かな人のように見えるという意味です。
「大智は愚のごとし」という場合もあるようです。
いずれにしても、禅の修行もまた、
禅の修行に入るまでに、積み重ねてきた学問知識などと、捨て去っていって、愚かものになる修行といえます。
「無字」の修行なども、愚かになる修行です。ひたすら、毎日「ムー、ムー」と無になる努力をします。
こんなことをして何になるのだろうかと思うかもしれませんが、
余計な考えを入れずに、むしろ考えをすべて振り捨てて、大馬鹿になるつもりで取り組んでゆくのです。
一茶が還暦の頃に作ったという句に
「春立つや 愚の上に又 愚に返る」というのがあります。
一茶の心境はうかがいしれませんが、愚にかえるとはよく言われています。
あの法然上人の言葉に
「聖道門の修行は、智恵を極めて生死を離れ、
浄土門の修行は、愚痴に還りて極楽に生まると知るべし」
とあります。
これもまたあじわいの深いものです。さすが法然上人です。
同じ法然上人の有名な『一枚起請文』にも、
「たとい一代の法をよくよく学すとも、
一文不知の愚鈍の身になして」念仏すべしとあります。
我々の修行もまた、馬鹿になる、愚に返る修行であります。
(臘八大摂心提唱より)