迎合することなく背くことなく
ある中学校の話です。その中学は、県内でも有数の問題のある中学校でした。
そこへある校長先生が赴任をして、手も付けようない中学をどうしようかと
思案をしていました。
悩んでいたある日のこと、夜、校長先生が学校から帰ろうとして
近くのイチゴ畑を通りかかると、二人の少年がイチゴを盗んでいた。
それを見て校長先生は、つかつかと近づいて行って掛けた言葉が
「おい!俺も仲間に入れろ」でした。なかなか、言えない言葉です。
そして、いっしょになってイチゴを盗み始めた。いっしょに盗みながら
「いいか、イチゴを取る時は、決して蔓を傷つけないようにしてイチゴだけを
取るんだ」と言いながら、イチゴ泥棒の講釈をしながら、イチゴを取っている。
そこで、畑の主に見つかって「よし!逃げろ!」と3人がてんでばらばらになり、
どうにか逃げおおせた。
あくる日、その校長先生は、イチゴ畑の主のところにいって、平身低頭お詫びをして
「イチゴを盗んだのは、この私です。」と盗んだ分のイチゴの賠償をして頭を下げた。
その主の方は、「いや、一人ではなかったはずだ、あと二人いたはずだ、その二人は
誰かと追及しました。
校長先生は、決して誰あるとは言わなかった。その後、学校に於いて、この話が知られ
るようになっても、校長先生は、最後まで誰であったかとは言わなかった。
しかし、ある教室を受け持っていた担任の先生には誰であるかわかった。
なぜ、わかったかというと、今まで一番暴れて、手のつかられなかった二人の生徒が
その日を境に変わっていって、段々と明るくなり、問題を起こさないようになった。
それで、校長先生といっしょに盗んでいたのは、この二人であるという話です。
「十字街頭にあって、向背なし」という言葉があります。世間の巷にありながら、
迎合することもなく背くこともないという意味の言葉です。
山本玄峰老師は、泥棒と巡査の話をしましたが、巡査が泥棒を追いかけて
同じように走っていても、中身は全く違う。確かに同じ方向に同じように
走っているが、中身に抱いているものは全く違うのです。
この校長先生もいっしょにイチゴを盗みながら中身が全く違う。
校長先生の中身は何であるか?大慈悲心一つです。
慈悲心を持っているからこそ、「十字街頭にあって、向背なし」で
迎合することもなく、背くこともない働きができるのであります。
{平成30年5月26日 横田南嶺老師 『武渓集提唱』より」