「臨済の四喝」の実践 一日一語158
鎌倉では、昨日からの雪で今年初めての雪化粧となりました。
円覚寺では、大攝心(1週間の集中坐禅修行期間)中にも関わらず、
横田南嶺老師をはじめ、雲水(修行僧)、和尚らが、早朝から、
雪かきをして北鎌倉駅からの参道の安全確保をしました。
さすがに管長自らが率先励行して雪かきをしているとは思いもよらないようで、
北鎌倉駅前のロータリーで雪かきをしている横田南嶺老師に
気が付いた通行人はほとんどいないようでした。
さて、今日の大攝心で横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。
「臨済の四喝」というものがあります。「有る時の一喝は、金剛王宝剣の如く、
有る時の一喝は、踞地(こじ)金毛の獅子の如く、有る時の一喝は、
探竿影草(たんかんようぞう)の如く、有る時の一喝は、一喝の用(ゆう)を作(な)さず。」
私は、この頃、この四喝を「どう日常に説いていくか」、また、「どう日常の暮らしの上で
実践をしていくか」について関心を持っています。臨済録の話を日常の離れた
ところに置いておいたのでは、何を以って臨済宗と言えるかと思うのであります。
臨済の四喝について、なるほどなとこの頃は思うようになりました。
よくできている。第一は、金剛王宝剣です。これは、外の世界、誘惑などを断ち切る。
外の情報や内心の迷いを断ち切る。これが、まず、第一です。
これは、仏教の修行の上で言えば、戒・定・慧の戒にあたる。外の誘惑を断ち切り
心から湧いてくる憎しみや怒りや貪りを断ち切る。そうして、断ち切っておいて、
次は、踞地(こじ)金毛の獅子です。
獅子がぐっと構えているようにじっとしている。これは、禅定の姿です。
禅定の姿というのは、あの獅子が大地にうずくまっている姿です。それは、
動物園のライオンのようにぼやっとしているしているのと違う。
野生の大地に生きているライオンは、いつでも飛び掛かれるような勢いを
持って、ぐっと力を蓄えている。これは、我々の禅定の様子です。
しかし、禅定にもとどまらない。禅定の力を得たならば、次は、
探竿影草(たんかんようぞう)です。探竿影草(たんかんようぞう)というのは、
外の世界に働いていくことです。
今、どういう状況にあるのかを判断する。今、自分がどういう状況にあるか、
外に向かって能動的に心を働かせていく。
今日ならば、「ああ、外で雪が降っている。雪道で困っている人がいる。
新聞配達の人が困る。」など、外に向かって判断する智慧を働かせていくのが
探竿影草(たんかんようぞう)です。
ここまでの三つの喝で、戒・定・慧がきちんとそろっている。
そうして、最後は、「一喝の用(ゆう)を作(な)さず。」です。
坐っている姿勢であるとか、こういう語録の言葉であるとか、様々な
決まり事などにとらわれずに、自在に働いていく。
これは、慈悲行として働いていくわけです。我々は、よく、
先代の足立大進老師から、叱られたものです。「雪というものは、外からかけ」と。
「北鎌倉駅の所へ行って、駅から道を作れ(確保せよ)」「ここ円覚寺へ来る人は外から
入ってくるのだ、外から道を作れ」と円覚寺の境内から先に雪かきをしていると
こうよく叱られたものです。
「その時にどうやったらよいのか?」「まず、どういう道を作ったら良いのか?」
外に向かって心を働かせていく。その時何をなすべきかを具体的にしていく。
皆様方の為、外から来る人の為に具体的に働いていく。形にとらわれない。
ですから、臨済の四喝には、きちんと戒・定・慧と慈悲行の実践がよく
説かれている。そういう風に私たちの修行の有り様がなっていくことは
できないだろうか。
外の世界を断ち切る。誘惑、内心の眠気、憎しみ瞋りなどを断ち切る力を
常に磨く。そして、ぐっと力を蓄えて丹田に力を込めて坐る。
これは、いつでも動ける姿勢でなければならない。いつでも立ち上がれる
姿勢でなければならない。その為の禅定である。そして、今、何をなすべきか
冷静に判断する智慧が探竿影草(たんかんようぞう)。旧来の型にとらわれず、
具体的に慈悲行を実践していく。これが「一喝の用(ゆう)を作(な)さず。」
こういう風に我々は、臨済の宗旨を実践していくんだと思うことがどうして
できないものかと思っています。
{平成30年1月23日 武渓集提唱より}