雑華厳浄(ぞうけごんじょう) 「一日一語151」
今日の僧堂攝心で横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。
華厳の思想というものがあります。これは、みんなが仏なんです。
もう、皆が仏の現れであるところです。我々は、やがて仏になれると
このことを言っただけでも、当時の仏教の中では、大きな衝撃でありましたが、
華厳教になると、廬舎那仏は何であるかというと、これは、この大三千大世界が
そのまま、廬舎那仏のお身体なんだと言います。
法身なんです。華厳には、法身仏という教えが出て参ります。
この間から、釋宗演老師の「観音経講話」のお話を紹介しながら、
我々は、観音の現れであると申してきましたが、これは、華厳の思想です。
我々が何とか一生懸命修行をして、大慈悲の心を身につけて、我々が
観音になるという努力・目標ではなくして、我々自身がもう、観音の現れ
である。ただ、それが、障害があって、そのことに目覚めることが出来ていない。
自覚することができていない。その障害となるものが仏教学では、煩悩障、所知障と申します。
法華経の教えであると、一途に一つの道をただ、ひたすらに突き進んでいくのですが、
華厳ですと、全体が仏である、そして、様々な異なった考え、異なった立場も
ことごとく、それを認めていく。
「あいつを折伏しよう」とか「攻撃されたら、ますます燃え上がる」というような
法華一乗的な立場とは違いまして、全体の立場に真理を認めていくのであります。
これは、今日の社会において、華厳の思想は、たいへんに大きな意味を持つと
思うんであります。いろんな立場があり、華厳というのは、雑華厳浄(ぞうけごんじょう))と
申します。
様々な花によって、この世の中を飾るというのが、もともとの意味です。「この一つの花が
特別だ」というものを説かないのです。蓮華なら、蓮華一つを説くのが
「妙法蓮華経」でありますけれど、華厳ですと、その蓮華にとらわれない。
それは、スミレであろうと牡丹であろうと、その辺に咲いている名もなき花で
あろうと、それぞれがそれぞれの花を咲かせること、その全体が仏であるというのが
華厳の教えです。
我々は、もっと華厳を学ぶべきです。教えが素晴らしいだけではなく、やはり、
円覚寺は、華厳の教えが元になっているからです。昔は、境内に華厳塔があり、
開山である仏光国師・無学祖元禅師の教えも、これは、華厳の教えが元に
なっている。華厳の発想ですから、怨親平等は、そこから出てくる。
なかなか、法華一乗的な考えですと、相手を認めるということには行き難い。
何とか説き伏せてようとかが法華です。
それに対して、華厳は、相手もこれは仏である、相手にも立場がある、
怨親平等、法界平等という法界差(さ)無しという、これが華厳の教えの
土台となって、具体的に仏光国師がお説きになった教えが、怨親平等です。
敵対するものを作らない。それですから、仏殿にある元寇の戦没者の位牌にも
「敵・味方」と書かずに「彼此(ひし)」あちらとこちらという風に表記されています。
敵・味方と書くだけで、そこには価値判断が入ってしまう。蒙古の軍勢であろうと
朝鮮・高麗のであろうと、南宋の軍であろうと向こうにいたか、こちらにいたかの
違いしかありません。
それぞれがそれぞれに立場があるんだというのが華厳です。「あいつは敵だ!
あいつは味方だ!」といいますが、「その敵・味方が平等である」というよりも
「敵も味方もない」というのが華厳の教えなのです。
そういう教えであるから、「華厳経入法界品」に登場する善財童子は、
いろいろな人の教えを学んでいくということがここから出てくる。
なかなか、法華一乗だけですと、一途ですから、例えを上げれば、
一つの道場に10,20年じっと、とどまって、一人の老師様のもとに
付かず離れず、ずっと、ついて、そうして教えを学ぶというのが
法華的な考えです。
華厳的なのは、教えからいくと、世の中には、いろいろな人たちがいる。
いろいろな考え方がある。それを平等に、区別することなく、謙虚に
童子のような気持ちになって、いろんな立場の人から教えを純粋に学んで
いきましょうというのが、この華厳経入法界品なんです。
ですから、善財童子が訪ねる53人の善知識というのは、今日的に言えば、
それぞれの専門道場の老師様であるとか、立派な布教師であるとか、
あるいは、大和尚であるとか、また、大学の教授であるとか、そういう人たち
のところばかりを訪ねる訳ではありません。
いろいろな商売をしている商人の人たちも訪ねていくのであります。
中には、遊女というような、当時、蔑まされていたような職業の女性の
ところにも、そこに真理があるのだと訪ね回るのであります。
こういう教えでありますから、円覚寺におりましては、華厳的な
生き方がいいなといつも思っているのであります。