「私は観音菩薩であるという自覚」 一日一語150
<平成元年に作られた観音様。黄梅院の観音堂にて。>
今日、横田南嶺老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
禅宗では、なぜ、観音経をよく読むのか?まず、第一の理由は、
釋宗演老師(1860年~1919年)が言うように
現世利益やじいさんばあさんの気休めのように思われるかもしれない。
これも気休めと言っても、これまた、大事なところであります。
一心に祈る、敬虔に祈る。ただ単に、荒唐無稽な現世利益として済まされる
問題ではない。
ところで、今、釈宗演老師の「観音経講話」の復刻版を、来年の夏頃には、
春秋社から出す予定で一生懸命やっているところです。
これは、釈宗演老師の婦人会の講話なんです。これが禅の本質を言っている。
老師曰く「まず、あなた方に言いたいのは、私自身が観音様の現れであるということだ」と。
そういうと多くの人達は、「それは坊さんが言うことであろう、坊さんは確かに専門の
修行をして、立派な坊さんになる人がいるかもしれない。」と思うでしょう。
また、尺宗演老師の話を聴いているご婦人方は、自分達は、とても観音様の現れと
とても思えない。宗演老師は、さらに説きます。「しかし、そうは言っても、
皆、ことごとく、観音様の現れである。観音というものは、何も自分の外側に
尊んで崇め奉っている観音ではなくして、我々自身の心の内に見るものだ。
我々の心は、もとより、皆、大慈悲心を持って生まれている。この大慈悲心を
持って生まれているということが、取りも直さず、我々が観音様であることの
何よりの証拠である。
観音様は、大慈悲、智慧である。そして、また、大勇猛心、勇猛果敢な心である。
これを、皆、誰しも持っているのである。
さて、「観音経」には、「大火」とか「大水」という言葉が出てきます。
我々がこうして生きている間には、「大火」に遭う。これは、思うに任せない
ことがあったりすると、心に瞋(いかり)、腹立ち、憎しみを覚えます。
そんな時に、どんな大火事も最初は、たばこの吸い殻のような小さなものが
大きな山火事になってしまうものであることを肝に命じて、瞋の心が不意に
頭をもたげてきたら、その時は、例えば、禅の教えであれば、まず、自分の
呼吸に、息を吸ったり吐いたりする、その気息、その呼吸の転ずるところに
心を向けると、その瞋の一念がすっとおさまることができる。
または、それは高度な技術でありますが、観音様に手を合わすと
ふっと心が穏やかになる。それは、なぜであるかというと、我々自身が
観音様の現れだからである。
<黄梅院の奥に位置する観音堂。>
我々が皆、大慈悲心を持っているということが、観音様を拝むことに
よって、気が付かされる。すると、我々が本来、大慈悲心を持って生きているのに、
日常の些細なことで瞋、腹立ちの心を起こすようでは、誠に申し訳ないと
外に対する瞋の心を自分自身に向けるようになる。
そして、果然として、瞋の心をおさめて、慈悲の心に転じていくのが
勇猛果敢な心の働きであります。
また、「大水」というのは、貪(むさぼり)で、火は、瞋(いかり)であります。
貪、欲望でありまして、いろいろなものを我々は、悲しいかな、自分のものと
したくなる。
身近なことは、食べ物や着る物はそうでありましょうし、名誉や財産もそうであり、
男性であれば、女性、女性であれば、男性という風に異性を求める、これも
そうであります。これも、ちゃんと節度をわきまえて、そして、相手に不快な
思いをさせないようにやっておれば、天地自然なことですから、問題はないのですが、
しかし、釋宗演老師も言及されていますが、これが、道に外れて、どんな高い身分の
人であろうが、愛着の水に溺れてしまい、そうして、地位や名誉ばかりでなく、
財産やすべてを失ってしまうことにもなりかねない。と。
しかし、そんな時、一度、観音様の名号を唱える。名号を唱えるということは、
宗演老師の言葉を借りると「我が本心に立ち返ることである。」と。
「我々は観音様の智慧の現れである!観音様の慈悲の現れである1
観音様の勇猛心の現れである!」この自覚こそが本当の救いになる。
むしろ、宗演老師は、我々自身の救いは、ただ、この自覚、それだけでよい
のであると強調をされています。
また、その自覚さえ、はっきりできれば、我々は観音様の現れである、智慧と慈悲を備えている。
自覚さえできれば、自然とこんな些細なことで迷っているのではいけないという果然とした
勇気が出てくるのであると。
また、そんなつまらないことで、自分自身を台無しにしてはならないという
こういう思いが出てくる。この思いが観音様の力であると宗演老師は仰せになっています。
度々、お薦め致しますが、釋宗演老師の「観音経講話」は、実に、禅門の観音経の説
としては、素晴らしいもので、それでいて、こいいった禅の第一義のみならず、
宗演老師という方は思いやりの深い方でありますから、良い話がたくさん散りばめられています。
(平成29年10月23日 僧堂 入制大攝心「武渓集」提唱より)