「布薩(ふさつ)」 一日一語149
横田南嶺老師が昨日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
最近、円覚寺僧堂では、布薩(ふさつ)という儀式を始めました。
布薩という漢字で「ふさつ」とあてていますが、これは、インドの言葉、
梵語のウポーサタが元でありまして、それを音写、音を当てただけであります。
ですから、布とか薩とかという漢字に意味はない。ウポーサタ、どうも
これも意味がはっきりしないところがあるのですが、元来の意味は、
神々に近づく、近づいていくというのが原語です。
仏教以前のバラモン教にウポーサタと言われる儀式があったようです。
それを仏教の教団が取り入れたようです。新月と満月の日、旧暦の
15日と月の末30日に、教団に所属している修行者、比丘比丘尼が
一同に集まって、戒の条文を読み上げて、お互い、自分たちがそれに
抵触していないか、犯していないかどうか、確認をし、反省、懺悔(さんげ)を
する儀式を布薩と申してします。
日本には、あの鑑真和上がお伝えになって、旧暦の15日と30日の2回、
戒を読み上げて、そして自分たちの確認、反省、懺悔をする。今は、お寺に
よりましては、布薩会という名前で、檀信徒とともにおやりになっている
ところもありますが、あまり、盛んではないというのが現状です。
我々の仏教修行は、戒・定・慧です。戒を守る。戒を守って暮らしをすることに
よって禅定、心を静めることができる。心を静めることによって、智慧、正しい智慧
正しい判断、正しい状況を認めることができるようになる。
その智慧によってこそ、初めて、具体的な慈悲の行いができるようになる。
ですから、戒・定・慧とそこから出てくるところの慈悲行を実践していく、
これが仏教のすべてであろうと思っています。
臨済禅師や中国の禅僧の語録を読んでいますと、時には戒なんてものは
全く無視しているような自由な表現が出てきます。一見すると禅門においては
戒を重視していないようにとらえるきらいもありますが、しかし、臨済にしろ
南泉にしろ、中国の唐の時代の禅僧方は皆それぞれ、禅の修行に入る前に
戒の勉強、特に律の勉強を何年もやっておられる。
つまり、すでに戒というものが前提になっていて、そこから、禅の修行が
始まっているのであります。今日、私どもがこうして修行をしていながら、
なぜ、深い禅定に入ることができないのか?なぜ、正しい智慧が生じて
こないのか?なぜ、慈悲行に働いていくことができないのか?であります。
なぜ、慈悲行に働いていくことができないのかは、智慧が欠如、生じていない
からであり、なぜ、智慧が出てこないのかというと、禅定が疎かになっている
からであり、なぜ、禅定が疎かになっているかといえば、元をたどれば、
戒に問題があるのではないか、こう思うのであります。・・・
今日、仏教のお葬式もこともいろいろと問題になっていますが、よく
仏教では、お釈迦様は葬式をしなかったというようなことを言われることも
あるのですが、今日の研究によりますと決してそいいうことはないと
言われております。
お釈迦様もやはり亡くなった人のことを大事に弔らったと指摘されています。
むしろ、問題は、大事なことは、我々僧侶がこの葬儀、法要を行う意義をしっかりと
自覚して自信をもって行っていくことであろうと思います。
そうすると、葬式といたしましても、あれは授戒の儀式であります。
ところが、若い和尚さんなどは、授戒をしているという意識があまりない。
葬祭場の問題や時間の問題などいろいろとありますが、しかし、そこで、
しっかりと授戒をして仏教徒としての戒名を授けて、御弔いをするので
あります。
これは、お釈迦様の時代も、お釈迦様ご本人も出家をしている人に対しては、
きちんと御弔いをしている。・・・
お坊さんというのは、人様に戒を授けるのです。戒師となって戒を授けている。
はたして、こういう認識も若い人には欠如しているのではないかと懸念をしています。
自分たちが何をやっているのか、はっきりわかっていないのに、檀信徒に安らぎを
与えられる道理はありません。・・・
やはり、戒というところから始めていかないと修行はうまくいかない。
それから、いつも申し上げることですが、戒と聞いて、そんなものはとても
守りきれないではないか、厳密の考えたら無理だと思われるかもしれない。
それで、段々と戒を意識することがなくなっていったんだと思います。
大事なことは、完全に守れということではありません。戒の条文を一つ一つ
読みながら、自分は十分ではないなと気が付く。これではいけないなと反省をする。
もう少し、心して修行をしなければいけないという反省と自覚が生まれる。
これが大事なところです。そういえば、こないだ、こういうことを言って
人を傷つけてしまったなあ、あれは不悪口戒にあたるなあ。失礼なことを
したと戒律の条文を見ることで自分で反省、懺悔をする、それを繰り返していく。
そうすると段々と善き方向に導かれていく。