「心の本質はいのちそのもの」一日一語141
今日から、円覚寺では、第82回夏期講座が始まりました。4日まで開催されます。
夏期講座1講目で横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。
私たちの禅の教えというのは、心をみる、心の本性・本質をみることを
第一にしてきました。
心というものは、ざわめき動き、私たち自身も悩ますのは心であります。
心が動揺するから、私たちは悩み苦しみます。泣いたり笑ったり
憎んだり、愛おしく思ったり、実に心は種々に変化してとどまることは
ありません。
でも、その心の表面上の動きに振り回されるのではなくして、
坐禅というのは、その心そのものをみるという。
これを例えて言いますと、好・嫌、泣・笑、良・悪など様々感情というのは
水の表面に立つ波のようなもので、感情の波の波立ちです。
もちろん、それを静かに鎮めるのが坐禅の修行でありますが、
もっと大事なことは、その波立っている波の本質は何なのかというと
水だということなのです。
様々な感情、この心の本質は何であるかというと、それは、
いのちそのものです。そして、そのいのちを私どもでは、仏(ほとけ)と
言います。
心をみるということは、仏をみるということと同じになって参ります。
明日は、さらに一歩進んで、私たちのこの心は仏であるという問題に
ついて学んで参ります。
お互いの心の本質は何であるか?心の本質はいのちそのものであります。
そのいのちは、たかだか、数十年前に生まれたものではない。
人類が始まって以来、何億年でありましょうか、ずった永遠に受け継がれて
きた、いのちそのものであります。その素晴らしいいのちの顕(あらわ)れが
このこころ、この身体なんだと自分で実感をする、体得をする。これが
私たちの禅の教えの一番大切なところです。
知識の多さや業績の良し悪しとか様々なことで、私たちは人比べて
苦しんでいると思うのですが、比べることのない世界、本来無一物の世界です。
そういう世界に花を見たり、鳥の声を聞いたり、有り難いですね、、ちょうど
日の光が差して参りましたが、お日様の光に触れて、気がついてもらえたらと
思います。
{平成29年6月1日 夏期講座 無門関提唱より}