「無字三昧」一日一語139
<ヤマボウシ>
横田南嶺老師が今日の僧堂大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
大攝心(1週間の集中坐禅期間)ともなれば、いかに無字三昧になるかです。
最初は、呼吸の様子だけを見(観)つめる。ずっと呼吸だけを意識して
「一つ~、二つ~・・・」と真剣に数える。一念も余念を交えないように
まるで、刀を振りかざして、ちょっとでも、一念を起こしたならば、
その瞬間、パッと断ち切るような気持ちで数を数える。
そうして、数を数えていったら、今度は、数も忘れて無一つになっていく。
「ム~、ム~・・・」とおへその下、下腹に渾身の力を込めていく。
そうでないと、ぼやっとしてしまう。意識が飛んでしまう。やはり、活力を
蓄えながら、一つに集中して、一念を起こさずに無字三昧になる。
今度は、さらに、呼吸も「無」も忘れる世界に入っていく。
そこで、公案(禅の問題)の本分をみたならば、どんな公案であろうと
はっきりと理(り)というものがみえてくる。
それが、そういうところまで行かずして、「これはこういうことであろうか?」
「どう答えたらよいか?」と考えて考えているから、いつまでたっても、
公案が進まない。
無字三昧・平等の世界と相対・差別(しゃべつ)の世界。これを自由にその時その時に
の状況に応じて、自由自在にやっていくのを「明暗双々(みょうあんそうそう)」と
古人は言ったわけです。
相対・差別の世界だけでは、やがて、疲弊してしまう。いつでも、平等の世界に
帰ることができることが望ましい。しかし、平等の世界にもとどまることもしないで
常に差別の世界で生きながら、現実の世界で少しでも良い方向に進んでいくように
工夫をしていく。
ともあれ、この大攝心では、一炷一炷(一回の坐禅の時間)、無字三昧の世界、
一念も起こさないように訓練する。これがなんといっても、禅宗のお坊さんの本領でありましょう。
{平成29年5月25日 月並大攝心6日目 武渓集提唱より}