「定点を持たない」 一日一語129
円覚寺山内・妙香池にて
今日から、円覚寺専門修行道場(僧堂)では、制末大攝心
(1週間び及ぶ集中坐禅修行期間)となり、横田南嶺老師をはじめ、
雲水(修行僧)、居士・禅子(在家修行者)が、この厳しい寒さの中
禅堂に籠り、修行に精進しています。
さて、先日、居士林にて、米・ブラウン大学宿泊坐禅会が行われましたが、
そのアメリカの大学生との懇談会で横田南嶺老師が話されたことを
まとめてみました。
私は、学生時分に金綱経を勉強したものですから、金綱経が
禅の一番の核心だと思っています。
しかし、その金剛経には「これが核心だと思ってはいけない」と
書いてあるから難しい。
それでも、今までいろいろとやってきて、(人生の)答えは金剛経に出ているなと
最近は、よく思います。
金剛経は、「これが悟りである」とか「これが真理である」とかと
固定してはいけないと絶えず説いています。
ところが、人間は何か固定したものを求めたがる。
「これで大丈夫だ」とか「これで確かである」とか
「これこそ真理である」とかと。
しかし、金剛経はすべてそれらを否定する。
定点を持たない、そこにこそ、安らぎがあると。これなんです。
皆さん方もこれといったものを得たいと思って、ここ円覚寺に来たかも
しれないけれど、金剛経には、これといったものはないと書いてある。
法、真理と言いますが、普通は、ブッダが真理を悟ったとか言いますが
金剛経はそれさえも否定します。「悟った真理は、ない」
「何も得たものはない」と。
何も得たものがないとわかったから、真理が伝わったということです。
<平成29年1月13日 ブラウン大学宿泊坐禅会懇談会にて>