「心の過剰な反応」 一日一語 112
横田南嶺老師が先日の日曜坐禅会(5月19日)で提唱されたことをまとめてみました。
何ものにもとらわれることがない。坐禅というものは、まず、外の世界に対して
善悪の境界を起こさない。分別をしない、分け隔てることをしない。
真理は、皆一つのものと言うんでありましょうけれど、なかなか、
一変に一つのものとはいかないまでにしても、皆、それぞれ相かかわりながら、
一つながりに繋がっている。
そこに分け隔てることは無意味であると冷静に見ていくことが大事で
ありましょう。外のものに対して心が過剰に反応をしない。過剰に反応
するということは、分別する、分け隔ててしまって、執着をしてしまって
いることです。
これが苦しみなんです。苦しみを造り出しているものは、外の世界ではない
ということをよく自分の心を観察して苦しみの様子をまずよく知ることが
苦しみから抜け出すことの大切な要因です。
いや、そうではない、環境が私を苦しめているとか、あの人が私を苦しめているとか
そう思う、思わざるを得ない様子も私共は十分理解ができるのでありますが
しかし、真実は、やはり、それに対する自分の過剰な心の反応が自分自身を
苦しめているのであります。
それで坐禅というものは、外の世界に心が振り回されないようにする。
ただ、無心に、ただ、聞いている。これが坐禅の要領です。