「二の矢を受けるな!」 一日一語 111
横田南嶺老師が先日の日曜坐禅会(7月3日)提唱されたことをまとめてみました。
様々なことが自分の身に降りかかります。それは、病気であったり、事故であったり
けがであったり、あるいは、皆様方の現実においていろんなことがあります。
それは、自分の遠い過去にあったものが、今あらわれたということです。
あらわれた時点でその過去に為した行いは、消えていくのです。
自分はそんな悪いことはしていないつもりはないというかもしれませんが
この辺が、仏教というものは、長いものの見方をしておりますから、
人間の命というものは、決して一代限りではないと。
今為した行いにしても、今生の間にあらわれるのか、次世代にあらわれるか、
また、さらに次に世代であらわれるか、それはわかりません。
仏教というものは、非常に長い見方をしている。自分の命は一代限りではないという
見方をしているから、今、様々なことが自分の身に降りかかっても、それはそれで
業(ごう)というもは、消えて終わっていく。
しかし、「何で自分はこんな目に遭うのか?」「自分だけがどうしてこんなことに
なるのか?」と思うのが、新たな禍を造ってしまう。これは自らが造り出している。
それは、本来造る必要がないにもかかわらずであります。
例えば、罵られたならば、罵られたことによって、それで終わっている。
それで自分の業は消えている。ところが我々はそうではない。
「何であいつにこんなことを言われなければならないのか?」と思ってしまう。
これが自らの新しい禍です。「何でこんなことを言われなければならないのか?」と。
これは自分自身の心だけでなく、身体をも蝕んでいきます。
この二の矢を受けるな!であります。