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臨済宗大本山 円覚寺

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2016.06.20

「あえて、一分の煩悩を断ぜず」 一日一語 107

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<千手観音菩薩像>

 横田南嶺老師が日曜坐禅会(6月19日)で提唱されたことをまとめてみました。

『伝心法要』に「菩薩に意生身(いしょうしん)有り」という言葉があります。

 本当の仏様というのは、姿・形なく、目で見ることはできません。

しかし、菩薩というのは、一分の煩悩を断たずにいると申します。

一分の煩悩を残しているというのは、これには2つの意味がありまして、

一つは、仏という完全な悟りを目指しながら、、まだ、そこに到らないで

一分の煩悩を残しているという意味合いです。

 もう一つは、仏になってしまえば、姿もなく形もなく、一切の心も

起きなくなってしまいます。それでは、人を救うことができない。

そこで、あえて一分の煩悩を残して抱える。

 困っている人、苦しんでいる人を見ると、それに対して自分自身が

主体となって心を生じていく。そのことによって、意生身という

体を実現させていく。それが菩薩の姿であります。

 大乗仏教の教えの実に素晴らしいところです。菩薩の姿というのは

無為、無作、仏の世界から、あえて一分の煩悩を断ぜずして、自分自身の

意に随って心を生じる、人々を救ってあげようという心を自ら主体となって

起こすわけです。

 これが願心といったり、願いといったり、誓いといったり、あるいは、志と

いっていろいろな表現をするのですが、こういう心を、あえて、自分が主体と

なって生じて具体的に菩薩という姿・形で現れたのが、観音菩薩であり

普賢菩薩であり、文殊菩薩であります。これらは、深い仏教の教えを

根底に表しているのであります。

「あえて、一分の煩悩を断ぜず」 一日一語 107

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