無我の道理 「一日一語 99」
<花いかだ・・・葉っぱの花がついている珍しい植物です。>
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
悟りの眼(まなこ)が明らかでなければ、ということは、無我の道理が
はっきりしていなければ、いくら厳しい修行をしたとしても「おれは
こんなに修行をしたんだ!」とか、いくらお布施をしても「おれは
こんなにお布施をしたんだ!」という風になってしまいます。
我見、我慢(自分は偉いと立てる慢心)の心が毛筋程でも残っていたならば、
これが迷いの業(ごう)を重ねることにすぎない。迷いの業を重ねるだけであって、
かえって、苦しみの結果を招いてしまいます。
道眼明らかなるということは、臨済禅師いうところの「無事」であり
「純一無雑」であり、まじりっけがない、自我というものが、毛筋も
残らないということでなければならない。
純一の極みに「無事」というものがある。ここまでいくために坐禅をする。
安易に「無事でいいんだと思うこと」は、間違いであり、毛筋一本の
我見、我慢、執着が残らないまで坐禅をすることが肝腎であります。
{入制大攝心6日目 提唱より}