人間として完成をしていく 「一日一語 98」
<紫蘭>
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
仏道の修行は仏になることと言われますが、仏になると言うと余りにも
かけ離れた、ほど遠い、及びもつかないことのように思うかもしれませんが、
つまるところ、人間として人間らしく生きることに尽きると思います。
それには、私たちの誤ったものの見方から離れる必要があります。
我々の
誤ったものの見方というのは、無常なるものの中にあって、常に同じこと
ばかりや、過去のことなどを思い続けていることです。
また、本来、無我であるのに、自分というものに執着をしている。
本来、苦しみであるのに、少しでも楽なことばかりを求めようとしている。
これが、お互いの迷いの様子です。
こうして、修行をするということは、無常ということに徹することであります。
ああいった、大地震があるとようやく、私たちは、無常かしらと思いますが、
この命というものは、いつ、どうなるかわからない。今の一呼吸一呼吸が
これで今生最後の一呼吸であるかもしれないという真剣な思いで坐禅をする
ことが大切です。
自分の楽ばかりを求めようとしない。苦しみに耐え忍ぶことこそ、誠の
安らぎであると気が付くことです。自分中心のものの見方をしない。
僧堂の修行は、禅堂の修行というのは、自分を一つも入れない修行です。
こうして、みんなと一緒に暮らす。自分の部屋もなければ、自分の時間もない。
自分の持ち物すら最低限のものにして、大衆の中に没入していく。
こういう修行をすることによって、理想はお釈迦様のように、
お釈迦様は、自分というものを完全に捨てられてすべてを一切衆生の為に
尽くされたご生涯だったんでありましょう。
私たちもそれに見習って、せめて、その万分の一の御恩を報いることが
できやしないかであります。
こうして、無常であることをよく見つめて、苦しみに耐え忍ぶことこそ
誠の安らぎであることをよく受け止めて、自分中心のものの見方から抜け出て
大衆と一如、我を捨てて修行していく。それが人間として完成していく一番の
道であります。
{入制大攝心5日目 提唱より}