真剣な修行を経た結果の「無事」「一日一語 97」
<都忘れ>
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
臨済録では、外に求める心がおさまったことを「無事」と言います。
この「無事」を噛み砕いて表現すれば、「ああー、このままで良かった!」と
気が付くことです。ただ、これがのちにこの「無事」ということが
大きな問題を引き起こしていく。なぜ、問題になるのかというと
「このまんまで良い」ということと「このまんまで良いのだと思うこと」では
これは紙一重の違いですけれど、この紙一重が大きな間違いを犯します。
「このまんまで良いのだと思った人」は間違いを犯す。それで
「このまんまで良いのだと思った」人はたちが、禅を曲解してしまって
のちに「無事禅」として批判をされるようになってきた。
本当に自ら求めて求めて求め抜いて、その結果、求める心がおさまって
「このままで良い」と気が付いた人と、こういう話を聞いて、説かれた教えを
聞いて「そのまんまで良いのだと思ってしまう」人とでは天地の隔たりがある。
求め抜いた末の「このままで良いのだ」ではないと、どうしても自堕落に
なってしまいます。
「このままで良い」と安らいでいる人と「このままで良いんだ思った」人の違いです。
臨済禅師自身も、求めて求めて求め抜いて、力の限りを尽くした末に
「求める必要がなかった!」「このままで良いのだ」と気が付いたのです。
それが臨済の「無事」であります。
『大般若経』の中に次のようなたとえ話があります。
油をいっぱいにした皿を頭の上に載せて、それを手で支え持って
ちょっとでも揺れたりするとこぼれるような状況にする。
この状況で広い街の人混みの中を油を一滴もこぼさずに通り抜ける
ようにといった話です。
これは綿密に修行をすべきことのたとえです。また、私たちが坐禅を
する上でも大切な心構えであります。
似たようなたとえ話もあります。ある死刑囚がいて、死刑が確定している。
しかしながら、満杯の油の入った皿を持ってそれを頭の上に載せて
これを一滴もこぼさずに向こうの街まで歩いていったら、死刑を許すと
言われて、死刑囚は、一心不乱に歩く。そのぐらい真剣なことのたとえ話です。
命がかかっているとなれば人間は、このぐらい真剣になれる。
臨済禅師の「無事」というのも、こういう真剣な修行を経た結果、
気が付くものなのです。最初から無事で良い、そのままで良いと
思い込んでいるものとは、天地に隔たりあることを知らねばなりません。
このぐらいの真剣な気持ちで以って一滴の油もこぼさない、もらさない
という気持ちで坐禅、数息観に取り組む。この真剣な坐禅をした結果
はじめて「無事」だということが徹底できる。そうして体験した「無事」
というものは、この頃の書物でたくさんでているような、ものを見て
どういうものかしらと、推し量るようなものとは、天地の隔たりがある。
なぜ、私たち臨済の禅は、世間に訴えるものがないのか?この本物を
失っているからではないかということを反省したいと思います。