恐れ多いという気持ち 「一日一語 96」
梅の老木に寄生している石斛(せっこく)
横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
『臨済録』に「外に有相の仏を求めば、汝と相似ず」とあります。
有相の仏というのは、姿・形で表した仏様のことです。もともと、仏様を姿・形で
表すということはしませんでした。仏様の言葉をこのように文字にすること
すらしなかったのです。
お釈迦様がお亡くなりになって、100年、200年を経ちまして、200~300年
の間というものは、仏様の教えを文字にするということは、恐れ多いという
気持ちがあって、また、仏様のお姿を姿・形で画くなんていうのは、これまた恐れ多い
という気持ちがあって、なされませんでした。
今は、何でも文字にする、言葉にする、何でも姿をとる、何でも写真に載せる
時代となっています。昨日もお話しましたが、私たちは、ただ、常に二つの視点を
持っていなければなりません。
一つは常に現実に対応していく眼(まなこ)です。ただ、今の時代に文字に
することはいけない、姿・形も撮ってはいけない、そんなことを言っているばかりでは
通用しません。
それと同時に「本来はどうであったのか?」これを常に顧みていく。
「本当は、こういうことはすべきではないのであるのかな?」というこういう気持ちを
失ってしまってはいけません。
果たして、今、我々がいろいろなことをやっておりますが、常に本来のところに
見据えながら、「これは、本来のものから外れておるのではないか?」「止むお得ず
していることではないか?」というような申し訳ないという気持ちが大事です。
「含羞(がんしゅう)」という言葉があります。羞(はじ)を含んでいるという
気持ちも失ってはなりません。
お釈迦様の伝記を画いているもので、きわめて初期のものは、
お釈迦様の周りの景色だけを描いてお釈迦様のところだけは空白と
なっています。お釈迦様を姿・形で描くのは申し訳ない、私たちが
姿・形でなぞるのは、恐れ多いというこういう気持ちがありました。
それが、のちに、人々のお釈迦様への恋慕の心が姿・形を描く動機と
なりました。言い伝えられたお釈迦様は、こういうお方で、こういう教えを
伝えられたと口伝で伝えられてきて、段々と時代が下るにつれて
お釈迦様を恋慕する気持ちがつのって、「伝え間違えないように」
「伝えられていること途中で途絶えるしまうことがないように」
恐れ多い思いを持ちながらも、お釈迦様の言葉を文字にし始めて
そして、お釈迦様のことを恋い慕うあまり、そのお姿を仏像を
作ったり、絵に描くようになって参りました。
これがだいたい、紀元前後あたりのことです。とこらが、いったん
絵を描くとか仏像を作り出すと本来のところ、本来の意味から
外れてしまう。
最初、仏像をお作りになった人たちは、お釈迦様のお心を伝えようと
それを形にしてきた。お釈迦様のお悟りになった心、円満なる仏心、
慈悲の心を姿・形でどう表現したらよいか、本質を知っていながら
あえて形に表してしました。
ところが、それを拝しているうちに、拝めばよい、拝めば何かご利益が
あるというような、本来の意味からずれてしまっているということが
でてきた。
最初は、お釈迦様の言葉、真理を文字にするなどということは
申し訳ないという気持ちがあったうえで、やむを得ず文字・言葉にしたものが
段々とこの言葉を有り難がる、その言葉について注釈する、解釈を
競い合う、そして、たくさんの言葉を覚えている人が偉いように
思われてしまう。たくさんの言葉を集めた人が立派なように
思われてしまうというように、本来のところからずれてしまった
というのが、臨済禅師が生きた時代でした。
それで臨済禅師は、「外に向かって姿・形ある仏様を求めるな!」
「文字なんかは、お手洗いにつかうような紙である!」と
そこまで言われたのでした。