お釈迦様なら、臨済禅師なら、どうご覧になるか? 「一日一語 95」
<すみれ>
横田南嶺老師が入制大攝心2日目に提唱されたことをまとめてみました。
私がこうして話をいたしましても、その聞いている人によって、おおよそ
受け取り方は様々です。こちらが思ったことと全く違く受け取られている
場合も多々ございます。
そのように違って受け取った人は全く違うことを言います。それを受け取った
また、違うことを言う。こういうことを重ねていくうちに私が言ったも覚えも
ないことようなことが伝えられて、文字にされてしまうというようなことは
現実にもよくあることです。
伝統ということは、これはもちろん大事でありましょうが、しかし、同時に
ただ単に、今伝えられていることだけを受け継いでいこうということだけでしたら、
言い伝えていくうちに、段々ともとから遠く隔ててしまうようになりがちです。
そこで私たちの修行は、一つには現実に伝えられていることを忠実に
守っていくのと同時に、一方では、「本来はどうであったか?」「臨済禅師の教えの
もともとはどうであったか?」「お釈迦様のいったい何を説かれようとしていたのか?」
このへんを常に鑑みるということをしていかなければ、「先輩がやっているから」とか
昔からやっているから」とやっているうちに、仏法や禅とは、かけ離れたものに
なっつてしまうという恐れがあります。
私たちがこうしていることももし、臨済禅師がひょっこり現れてご覧になったら
どう思われてるか?私たちは臨済宗という看板を掛けていますが、臨済禅師が
もし、現れたら、私たちの様子をご覧になられてどう思われるのか?
常に自省する必要があるのではないでしょうか?
「一日一語 95」