なぜ「不立文字」なのか?「一日一語 93」
<流金花 流れに沿って群生する黄金色の花の様子からその名前がついています。
小さな小さな花です。今、円覚寺山内・黄梅院にて鑑賞することができます。>
昨日の春季宿泊坐禅会(学生坐禅会)で横田南嶺老師が提唱されたことを
まとめてみました。
思いを持っていれば必ず実現をする。思いは根本、おおもとであります。
思いだけでも大きな力となりますが、しかし、その思いが言葉となって
表れることによって、さらに私たちの思いがはっきりとなって、その思いを
念じていくことができる。
私たち、禅の修行というのは、不立文字といって本や文字を
読まない、言葉を否定する修行です。私は、長い間、なぜ、そのような修行を
するのか、長年、わからなかったのですが、最近、なるほどと思うことが
ありました。
最近、福島智先生の話を聴く機会がありました。福島先生は9歳で失明、
20歳前後で聴覚を失います。目も見えなくなり、耳も聞こえなくなり、
自由に言葉を交わすことができなくなりました。
目で見ること、耳で聞くことができなくなると、広い真っ暗な宇宙空間に
ただ一人だけ、ポツンと置かれた状態ようになる。孤独というのは、
周りにどれだけ大勢の人がいても、そこに言葉や会話がなければ
孤独なのです。
そのような真っ暗な宇宙空間にただ一人漂っているような孤独・絶望
の中で福島先生のお母さんが、初めて福島先生の指に点字で、ちなみに、
私は学生時分点字のボランティアをやっていたからよくわかるのですが、
6つの点で50音を表す。6つの点を福島先生の指にポンポンとお母さんが
たたいてくれて、最初に呼びかけた言葉が「さとし わかるか」でした。
何の言葉もない真っ暗な暗闇の中のところに、母の言葉「さとし わかるか」が
その言葉によって真っ暗な中に光を与えてくれた。
「ぼくの命は、言葉とともにある」というのがこの福島先生の実感です。
それから光というものが開けてきて生きる意欲が湧いてきた。
キリスト教においても「はじめに言葉ありき」ということが言われています。
私たち、禅宗において、文字を読まず、言葉を否定する修行をする、無に
成りきるということは、まさしく、宇宙空間の中に何もない真っ暗闇の中に
一人さまようような無の体験をすることによって、そこで初めて、
本当の言葉の力、言葉の意味というものを体感するのであろうと思います。
その為に無に成りきる、言葉や文字を否定する修行をするのでろうと
いうことがこの頃になってようやく気が付くことができるようになって
きました。
本当の言葉を知るために、言葉を否定する修行をする。残念ながら、
皆さんの普段のように言葉に溢れすぎていると逆に言葉の力を
失っていくのではないでしょうか。何もかも否定することによって
初めて言葉の力が湧いてくる。思いが言葉になって実現する。
修行ということは、難しいことのように思うかもしれませんが、
思いを正しくする、言葉を正しくする、姿勢を正しくする、
この3つに尽きると思います。
腰骨を立て、姿勢を正し、自分の思いを正しくする。どのような思いを
持てば良いかといえば、先ほど「念ずれば花ひらく経」の中で
欲を捨てよう!偽りの飾りを捨てよう!善いことをしよう!など
様々な願いを坂村真民先生が書いてくださっています。
そのような言葉を口にして思いを正し、思いを正すことによって
言葉を正し、言葉を正すことによって思いも正しくする。
姿勢を調えることによって自分の心も調えていく。
思いも強くなっていく。
正しい思いを持ってお互いが人生というものを十分に力を発揮する
ことができるように、花がひらくように、花がひらくのもお互いのこの
思いによるということを学んで欲しいと思います。