誠の「得る」とは? 「一日一語 92」
横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。
すでにあるものに、すでに備わっているものに気がつくということが
誠の「得る」というに他なりません。(修行をして)何か新しいものを得た、
何か特別なものが出てきたというのは、すでに迷いあり、間違いであると
言って結構であります。
本来素晴らしいものは、みんな持って生まれているのです。
盤珪禅師は、それを「不生の仏心」と言いました。それは、
決して作られたものではない、何かによって生じて得られるものではない。
このことをよく納得してこの不生の仏心、本来の面目というものを
用いようと思えば自由に用いることが出来ることが肝腎です。
目でものを見たり、二本の足で歩いたり、両方の手でお茶碗を持ったり
お茶をいただいたり、歩こうと思えば歩いて行けば良いし、もう休もう
と思えば休めば良いし、働こうと思えば一所懸命に働けば良いし、
もう十分と思えば、そこで休めば良い。
自分が主人公となって自由に思うがままに為すが良いというのが
臨済禅師のお説きになっているところであります。
{平成27年12月16日 淡青坐禅会『臨済録提唱』より}