お互いを活かし合っていく世界へ ~一日一語 86~
円覚寺山内の妙香池も今朝の寒さで氷が張りました。
今朝から、円覚寺専門修行道場(僧堂)では、制末大攝心(1週間に及ぶ
集中坐禅修行期間)となりました。
横田南嶺老師をはじめ雲水25名、居士(在家修行者)などが禅堂に
詰めて修行に精進します。
今日の僧堂攝心で横田南嶺老師が提唱されたことをまとめてみました。
仏教ではよく、「己こそ己のよるべ」「己こそ主人公」と言ったり
臨済禅師も「随所に主と作(な)れば、立処皆な真なり」と説かれましたが
かといって、自分が主人公で、すべて自分の思うようになるものごとが
なるかというとこれまた甚だ勘違いであります。
そこで臨済禅師が四通りの分けて現実社会に対応する方法を説かれて
います。それが四料揀(しりょうけん)です。
まず最初が奪人不奪境です。時として、私たちは、自分の考えや思惑、
己を殺して周りや相手を立てなければならないことがある。
例えば、新到(しんとう・・・僧堂に新しく入ってきた雲水)ならば、自分の今までの
好き嫌い、様々な考えをすべて殺して、この修行道場の規則にゆだねなければ
ならない。これは、何の社会においてもそういう時は必要であります。
2番目は奪境不奪人です。これは、僧堂で言えば、どんな新到であろうと
いったん、単布団(坐禅用の座布団)の上にドン坐れば、天にも地にも我一人で
誰にも頭を下げる必要はない。邪魔をされる必要はない。ドン坐って外の世界も
何もない天にも地にも我一人の世界、こういうものがなくてはなりません。
3番目は、人境俱奪です。天地我一人だけでは、不十分でその次は、
天もなく地もない、我もなければ人もない、この世界を体得しなければ
なりません。それがなければ、本当の意味で、己を活かし、人を活かす
ことはできません。この人境俱奪、無の世界、空(くう)の世界を我々
禅宗の体得すべきところです。
4番目は、人境俱不奪です。我もなく人もなく何もなくなったところ
そこですべて終わってしまうというのあれば、虚無主義となってしまいます。
そこから、大死一番、大活して、我も活き人も活かす世界、ともに手をとって
お互い活かし合っていく世界を実現していかねばなりません。