一日一語 72
仏心というと、えらい、人当たりの優しい、人間に都合の良いものだけが
仏心である思われがちです。どうも、社会の規範に合わないものは仏心でない,
悪人であるというものの見方をしてしまいます。
大自然には、大地震もあれば、火山の噴火もあり、津波もあります。
これらは、人間にとっては都合の悪いものであると考えがちですが
大自然のままにそれぞれの姿があるだけなのです。
また、私たちは、現代の社会規範に合わないから、あれは、病気であるとか
障害であると名前を付けて疎外しまうが、本当のところは、
様々な人の姿があるだけなのです。
極端なことを言うならば、あなたが、「憎くてしょうがない!」「根畜生!」と、
思うのも、全部自然の姿であり、全部仏心なのです。ギャーギャー騒ぐのも、
かき乱すのも全部仏心です。
人間の都合の良いおとなしいのだけが仏心と考えるのは、
人間中心のわがままなものの見方です。
仏心の信心というのは、私たちの都合の良いものだけを仏心と
受け取ることではなくて、丸ごと仏心であると受け止めるのが
信心の究極です。
そうかといって、自分の感情をそれほど無理に押さえつけることは
ない。気に入らないことがあったら、腹が立つのが大自然の働きです。
そして、それが少しおさまった時には、「みな大自然の姿なんだ」
「仏心の姿そのものなんだ」とこのところだけをしっかりとおさえていれば、
泣こうが悲しもうが根畜生と思うが、みな仏心の中のことでおさまっている
いるはずです。
この辺はたいへん難しいところではありますが、私たちの都合の良いもの
だけを仏心と考えてしまうのは大きな過ちであります。
もちろん、現実に世の中というものはありますから、なるべく、人様に
迷惑をかけないのが道理であることは当然であることは言うまでもありません。
{平成27年12月20日 日曜坐禅会『伝心法要』提唱より}