一日一語 ㊽ ~僧堂攝心編~
<妙香池 夕日の照らされる15時半~16時頃が見頃です。>
白隠禅師が31歳の時、ある山に入って、山中独攝心していた時の話というのが
伝わっています。ある日、白隠がその山を歩いていると、非常に珍しい岩があって
辺りも見回すと眺めも良く、坐禅をするのに程よいなあと思って、岩上に坐っていた。
すると、村人がやってきて「その岩に坐ってはいかん」と注意をしてくれた。
白隠は、いったい何があるのかなと思いながらも深く詮索はせずに山中にある自分で拵えた
庵に帰って坐禅をしていた。
一人夜通し、坐禅をしていると、真夜中12時に、誰もいない山中にもかかわらず、
何かの足音が聞こえる。そして、庵の戸が開いて身長2メートルをはるかに超えるような
大男が中に入ってきた。
大男は、「慧鶴さん!」と白隠の名前を呼んだ。白隠が黙っているとしばらくして
その大男は帰っていった。あとでよく見てみると、戸を閉めたはずの戸が開けられた
気配はない。どういうことかと思っていると、あくる日の朝、村人がやって来て
「何かありませんでしたか?」と言う。よくよく訊いてみると、
村人曰く「あなたが昨日坐っていた岩は、山の神様が坐るところで、あそこに
乗っかったものは、必ず祟りがある」と。
白隠は、それで「なるほど、あれは、山の神による祟りだったのだ」と合点した。
白隠は、まだ禅定力があるので大男のような魑魅魍魎が表れても心を動じないから
良かった。もし、一念でも恐怖心を抱いていたらどうなっていたか。
それからというもの、白隠は、毎晩、木魚をたたいて読経をしながら、禅定の助けと
した。白隠ほどのお人でも山中一人坐ることは容易なことでない。隙があれば
何か恐ろしい魔に魅せられてしまう。
そういう時には木魚の音をだして、わざとポンポンとならしてお経を唱えた。
そのようにして、心を落ち着けて坐禅をした。
それから、ずっと、六日七晩坐禅をして「あらゆるものは、みな自分の心が
造り出したものである」とはっきりした。
自分の心が動揺していれば、外の魔につけこまれる。自分自身の心に
何の動揺もなければ何もひっかかることはない。
もし、妖怪が出てきたら、こちらも妖怪になって応対すればよい。
もし、仏様は出てきたら、こちらも仏様となって応対すればよい。
みな表れたものは、自分自身の心が姿・形を表れたものである。
魔も仏も一切は心が造り出したものであると白隠は確信をしたの
でした。
{平成27年11月26日 月並大攝心最終日 『臨済録提唱』より
(後記)
おかげさまで、月並大攝心、無事に円成となりました。次の攝心は
臘八大攝心(12月1日~8日)となります。