一日一語 ㊺ ~僧堂攝心編~
<参道>
心の本質においては、本来、生まれたとか滅するとかは、ありはしない。
何も本当は生じたものも滅したものもない。ただ、波が浮かんでは消えていく
様子だけのようなものであります。ほんの表面の一部分だけをみて泡がうかんだ
波が浮かんだと一喜一憂していますが、もっと深いところを見れば、浮かぶものも
なければ、消えるものもありはしない。
ただ、仮に浮かんだ波の一つに名前をつけただけことです。浮かんだ波に
いかりという名前をつけたり、むさぼりという名前をつけたりしますが、
そんな名ですら、空(くう)、つまりは仮のものです。
ところが、我々はその仮につけた名を実在しているものと思い込んで
大きな間違いを犯している。
仮に設けた概念、思い描いたものにすぎないものを実在していると
錯覚をしている。
心の本体は、仏心・仏性一つしかない。しかし、仏心・仏性は、姿・形がなく
言葉で表現することができない。また、思い図ることもできない。
それを人々にわかりやすく示そうとして、阿弥陀様や観音様が作られました。
仏心・仏性は、ずっと生き通しのいのちです。無量の命です。それを
無量のいのちの仏様というので阿弥陀様に姿・形を変じて人々に示しました。
また、仏心・仏性は、大宇宙いっぱい、大千世界いっぱいなので、
毘盧遮那仏という仏様の姿・形に変じて表しました。
仏心・仏性は、実にやさしい、人々が苦しんでいると
救いの手を差し伸べてくれる、素晴らしい働きするというので
観音様という姿・形に変えて表現したのです。
さらに、仏心・仏性は、何の不安もなければ、何のおそれもない、常に
清らかな世界であるというので、極楽浄土という姿・形に変えて示しました。
このように心の本体そのものは、表し伝えることができないので、
仮にいろいろな姿・形に変えて人々に伝えようとしたのが
様々な仏様なのです。
{平成27年11月23日 月並大攝心中日 『臨済録提唱』より}