一日一語 ㊹ ~僧堂攝心編~
修行の本質とは何か?長いこと坐禅をする、たくさん本を読む、
公案(禅の問題)透過する、丹田呼吸をするなどそれらは、みな本質に触れる為の
様々な途中の教えであって、本質を会得しなければなりません。
死を見つめるということが修行の眼目と言います。いざ、死が目前に迫った時に
何ができるか?生死というものに相対することができる。これが仏道修行の眼目で
あります。
長いこと坐禅をしました、長年、大攝心に通いました、公案を多く透過しました、
丹田に力が入っていますなど、これらのことが本当に死を目の前して役に立つのか
です。
本当のものというものは、死を目の前にして一切が脱落した時にあなた自身は
本当は何であるか?人間の生きる本質は何であるか?であります。
死を目前にしたときに何がその死に向かい合えることができるかというと
それは、今、こうして生きている、生かされていることに感謝をすることです。
本当に感謝の心と慈悲の心のかたまりとなって仏心と一枚になっていく。
そうすると生き死にを超えた生き通しの世界になるのです。そうすると
その人亡きあとも、様々なご縁を通じて生き通しとなるのであります。
{平成27年11月22日 月並大攝心3日目 『臨済録提唱』より}