一日一語 ㊷ ~僧堂攝心編~
<イチョウ 看門(車通用門)近くにて>
宇宙の始まりより太陽系の終わりに到るまで、そのことを知ることのできる
我々の心の本体というものは、いったい、どういうものであるか?
お釈迦様以来、代々の祖師に到るまで、難行苦行の結果、気づいたことは、
最初にこの心の本体があるということです。天地が始まる以前、宇宙が始まる以前に
心の本体があるということです。父母未生以前という話どころではありません。
それを盤珪禅師は、「不生(ふしょう)」の一言で表現されました。
何らかの現象によって生じたものではない。作られたものでもなく、
形成されたものでもない。始めからありてあるものなのです。
それは、ずっとあって微動だにしない。むしろ、その中に宇宙の始まり
生成など様々な現象というものがあり、それらは、大いなる心の中に
表れた現象にすぎないと祖師方は気づかれたのです。
宇宙のような大きな世界がどこか自分の外にあるのではなく、
今こうして話を聞いているこの意識のおおもとがそれなのです。
井戸を掘るのにどこを掘るのか?足元を掘れ!と言います。
今、こうして聞いている心のおおもとをずっと尋ねてみよ。
それを聞いているものは何者であるか?それを見ているものは何者であるか?
両親が生まれる前は何であったか?そう問い詰めることは、そのような方向に
心を向けていく為であります。
するとこの意識のおおおもと、源をずっと沈潜して求めていくと
盤珪禅師は、「不生」の二字ですべてととのうと言われました。
生じたのではなく、作られたものでもない。ずっと始めからある。
ということは、生も死もない、生じては滅することを超え、その心の
本体に於いては、私たち現実生活の中で、様々に迷ったりや苦しんだり
するような罪や穢れ、過ちというものも届くものではない。
大宇宙から見れば、我々の体は、実に小さなものです。
見たり聞いたり感じたりといった意識というものは、この小さな体の皮の内に
納まっていると思われるかもしれませんが、そうではありません。
私たちの意識の源を尋ねていけば、実は、天地一杯、宇宙に満ち満ちている
ものなのです。
{平成27年11月20日 月並大接心初日『臨済録提唱』より}