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臨済宗大本山 円覚寺

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2015.11.21

一日一語 ㊷ ~僧堂攝心編~ 

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<イチョウ 看門(車通用門)近くにて>

宇宙の始まりより太陽系の終わりに到るまで、そのことを知ることのできる

我々の心の本体というものは、いったい、どういうものであるか?

 お釈迦様以来、代々の祖師に到るまで、難行苦行の結果、気づいたことは、

最初にこの心の本体があるということです。天地が始まる以前、宇宙が始まる以前に

心の本体があるということです。父母未生以前という話どころではありません。

 それを盤珪禅師は、「不生(ふしょう)」の一言で表現されました。

何らかの現象によって生じたものではない。作られたものでもなく、

形成されたものでもない。始めからありてあるものなのです。

 それは、ずっとあって微動だにしない。むしろ、その中に宇宙の始まり

生成など様々な現象というものがあり、それらは、大いなる心の中に

表れた現象にすぎないと祖師方は気づかれたのです。

宇宙のような大きな世界がどこか自分の外にあるのではなく、

今こうして話を聞いているこの意識のおおもとがそれなのです。

井戸を掘るのにどこを掘るのか?足元を掘れ!と言います。

 今、こうして聞いている心のおおもとをずっと尋ねてみよ。

それを聞いているものは何者であるか?それを見ているものは何者であるか?

両親が生まれる前は何であったか?そう問い詰めることは、そのような方向に

心を向けていく為であります。

 するとこの意識のおおおもと、源をずっと沈潜して求めていくと

盤珪禅師は、「不生」の二字ですべてととのうと言われました。

 生じたのではなく、作られたものでもない。ずっと始めからある。

ということは、生も死もない、生じては滅することを超え、その心の

本体に於いては、私たち現実生活の中で、様々に迷ったりや苦しんだり

するような罪や穢れ、過ちというものも届くものではない。

 大宇宙から見れば、我々の体は、実に小さなものです。

見たり聞いたり感じたりといった意識というものは、この小さな体の皮の内に

納まっていると思われるかもしれませんが、そうではありません。

 私たちの意識の源を尋ねていけば、実は、天地一杯、宇宙に満ち満ちている

ものなのです。

{平成27年11月20日 月並大接心初日『臨済録提唱』より}

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