石鞏和尚 「矢を見よ!」
ー百日紅(サルスベリ) 法堂跡にてー
横田南嶺老師が今日の淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
唐代の禅僧、馬祖道一禅師の教えをよく表す代表格に石鞏(しゃくきょう)和尚が
います。石鞏和尚は、もともと猟師であって鹿を追いかけて、たまたま、馬祖道一禅師が
いらした庵の前を通り過ぎました。
猟師の石鞏は、馬祖禅師に尋ねました。「鹿が過ぎたのを見ませんでしたか?」と。
馬祖曰く「お前はいったい何者であるか?」
石鞏曰く「ご覧の通り、猟師でございます。」
馬祖「お前は鹿を射ることができるか?」
石鞏「はい、矢で射ることができます。」
馬祖「それでは、いっぺんに1本の矢で何匹の鹿を射ることができるか?」
石鞏「1本の矢では1匹の鹿をいるのが精々です。」
馬祖「そんなことでは、鹿を射ることができるとは言い難いぞ」
石鞏「それでは、和尚様は1本の矢で何匹の鹿を射ることができるのですか?」
馬祖「わしは、1本の矢で群れ全体の鹿を射殺すことができるぞ」
石鞏「群れ全体を射るとは何ということでしょうか。私もあの鹿もことごとく
命がございます。どうして、1本の矢で群れ全体を射殺す必要があり
ましょうか」
馬祖「お前、そのことがわかっているのであれば、自分自身を射たらどうか」
ここで「自分自身を射る」ということや、「1本の矢で鹿全体の群れを射る」
ということは、私たちの様々な悩み苦しみ、108どころではない、数えきれない
煩悩の、そのおおもとの一つを射殺してしまえということを意味しています。
おおもとの一つを射殺してしまえば、すべての悩み・苦しみはおさまるのです。
そのおおもとはいったい何か?それが我欲、自分さえ良ければよいというわがままな
思いなのです。この自我の一念を射ることができたなら、あらゆる悩み苦しみは
ことごとくなくなるのです。
石鞏はそのことに気が付いて長い間かけて苦しんでいた無明、煩悩を今日ことごとく
皆おさめることができたのでした。そして、その場で髪を剃って馬祖禅師の弟子に
なりました。
それからというもの石鞏和尚は、もともと猟師出身でありましたから
修行僧が来ると常に弓と矢を持って導きました。修行僧がやってくると
その僧に向かっていきなり、矢をつがえて弓を引き絞って「矢を見ろ!」とやった
のでした。
そんなものでしたから、修行僧は皆、恐れをなして帰っていきました。今の時代で
言ったら、いきなり鉄砲を突きつけられたり、むき身の刀を抜いて「さあ、どうだ」と
言われるようなものです。
30年間それが続きました。石鞏和尚が「矢を見よ!」とやると皆逃げていく。
ところが、そこに三平(さんぴょう)という人が現れて終止符が打たれることに
なります。いつものように石鞏和尚が「矢を見よ!」と引き絞ると、三平は、着ている
ものの胸をはだけて「さあ、どうぞ射てください!」と言って、さらに
「こんな矢は人を殺すだけの矢ではございませんか。あなたは、曲がりなりにも
和尚様であるならば、人を活かす矢はいかがでございましょうか」と言ったの
でした。
石鞏和尚は「30年して今日やっと人を得たわい!」と弓矢を捨ててしまったのでした。
馬祖道一禅師の頃の、禅の活き活きとしたはたらきを表している問答であります。