何を伝えようとしてるのか?
月並大攝心3日目
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
『臨済録』を読んでいると臨済禅師が矢庭に喝一喝をしたり棒でひっぱたいたり
礼拝したり、あるいは払子を立てたりします。初めての人が読むと臨済禅師が
何をやっているのかさっぱりつかみどころもなく検討もつかないのではないか
と思われます。
しかし、臨済禅師はそれぞれにきちっと何かを伝えようとして喝一喝したり
棒でたたいたり、礼拝したり払子を立てたりしているのです。
臨済禅師が何を伝えようとしているのか?これを常に見定めておかねば
なりません。昨日お話した「赤肉団上に一無位の真人有り」はそれを表現した
一つです。各々の体には本当に素晴らしい自分がいる。それは不生不滅、
それでいて何もないかと思えば、いつも穏やかでいつも静かで慈悲に満ちている。
素晴らしいもう一人の自分がめいめいの中にいる。
伝えたいことを一無位の真人という言葉で表現していますが、その端的をさらに
表現しようとしたのが喝一喝です。
何ものとも言いようのないもの、不生不滅なるものは何であるか?
それは、生き通しのいのちであるという言い方もできる。春には草木が花を咲かせ
秋には実をみのらせる。これが生き通しのいのちです。私が今こうして話を聞いている。
これも生き通しのいのちです。
何とも名前のつけようない、とらえようのない、言葉では表現しようないが
しかし、今、確かにこうして生きている。生きてはたらいているものを何とも
言いようがないので喝一喝に示すしかなかったのです。
その喝一喝のところに、その生きてはたらいているものを確かにつかんで
もらいたい。そこに生き通しのいのちを確かに感じてもらいたい。
それが臨済禅師が一番伝えたいことなのです。
それを見て取ることができなければ、何の意味もない禅問答になってしまう。
逆にそれさえはっきりしていれば、これから読んでいく臨済録中の問答も
活き活きとした生き通しのいのちの見事なはたらきとして見て取れることができるのです。