生きていく力
入制大攝心 3日目
横田南嶺老師が今日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
昨日、修行というのは、「糞掃堆頭(ふんそうたいとう)に一顆の明珠を拾い得たるが如し」
つまり、いろいろなゴミの山の中から一つの宝を見いだすようなものであるという
たとえ話をしました。
そのたとえ話を聞くと、その宝は自分の外にあるように思われるかもしれない。
その宝をお経の中や公案(禅の問題)の中、またはいろいろな人のお話の中に
さがそうとしてしまうかもしれませんが、それではその宝から遠ざかるばかりです。
『法華経』に衣裏の繋珠(えりのけいじゅ)というたとえ話があります。
ある貧乏な人がお金持ちの友人の家で酒に酔って眠りこけてしまった。
友人は公用で出かけなければならなかったので、その人の衣の裏に無価の宝珠
(値のつけようにないほど高価な宝玉)を縫いつけて家をでました。
それはその珠一つあれば一生涯かかっても使い切ることができないほどの宝です。
ところがその人は酔いつぶれておりそのことを知りません。ですから、
その人は衣裏の宝珠の存在も知らずに、またもとの貧乏で放蕩な暮らしを
していました。
その後、その人は偶然、友人に出会って、その友が言われたのは
「君はまだそんな貧乏暮らしをしているのか」ということでした。
そして、「なんということか、あなたの衣の裏を見てみなさい。そこに
素晴らしい宝の珠を縫いつけておいたではないか」。
その人は言われてみて衣の裏を見てみると珠の存在に気づいたのでした。
その人はそれ一つあれば生涯、困窮することのない珠を肌身離さずずっと
持ちながら、それとは露も知らずに貧乏暮らしをしていたのでした。
本当の宝というものは、自分の外にあるのではありません。誰もが本来
持って生まれて来ているのです。よく仏心にたとえられます。私たちが
この世に生まれて来ることは、この世で生きていくだけの力をちゃんと
持っているからこそ生まれて来ているのです。因縁成就するとはそういう
ことです。
植物の種も同じです。ちゃんと大きく成長して実を結ぶ力を小さな種の中に
きちんと備えているのです。
ー白雪げしー
皆さん(雲水)はこうして僧堂にやって来ました。庭詰、旦過詰(入門に
あたっての通過儀礼)を終えて、今、大攝心に臨んでいます。僧堂に来たという
ことは、僧堂でつとめてやっていけるだけの力を持っているということです。
各々、衣の裏に宝珠が縫いつけられているがごとく、やっていけるだけの
力を持っているのです。
せっかく持っている力を自分で見限ってはいけない。
『論語』に「冉求(ぜんきゅう)曰く、子の道を説ばざる(よろこばざる)には非ず(あらず)。
力足らざるなり。子曰く、力足らざる者は中道にして廃む(やむ)、今汝(なんじ)は画れり(かぎれり)。」
とあります。力が足りないのではない。自分自身を見限ってしまってはいけないということです。
各々にとって素晴らしい宝珠とは何であるか?これ一つあれば一生涯、困ることのない
ような本当の宝とは何であるか?
その宝は決して自分の外にあるのではない、自分の内にある、自分にすでに備わっていると
信じて探究してもらいたいと思います。