自ら究める
入制大攝心 2日目
ーシャガとバッター
横田南嶺老師が今日の僧堂で提唱されたことをまとめてみました。
これから私たち臨済宗の祖である臨済禅師の語録を読んでいきますが、
大切なことは、臨済禅師がいったい何を体得したのかを探究し、そして
自らもこれを体得することであります。
洞山良价禅師に「糞掃堆頭(ふんそうたいとう)に一顆の明珠を拾い得たるが如し」
という言葉がります。ゴミ山の中から一粒の真珠を見つけるという意味です。
私たちが普段やっている修行というのは、大きな声でお経を読んだり、一生懸命呼吸を数えて
呼吸をしたり、公案(禅の問題)の見解を何度も突き返されたりとこれを毎日繰り返していきます。
ただその中で一つの真珠(真理)を得る、自分で心の底から「これだ!」というものを
体得する、それが何より重要です。「これだ!」と体得するものは、いったい何でありましょうか?
お釈迦様はいったい私たちに何を説こうとしてくださったのか?迦葉尊者は何を体得されたのか?
達磨大師はわざわざインドからはるばる中国まで来て何を伝えたのか?臨済禅師が師匠である
黄檗禅師から棒でしたたかに叩かれて何を得たのか?
それらの、たった一つのものに気がつく、それが私たちの修行の眼目です。
疑いのないところに得るものはないと言います。
孔子も仰せになりました。「之(これ)を如何(いかん)せん、
之を如何せんと曰(い)はざる者は、吾之を如何ともすること末(な)きのみ」と。
「どうしたら、どのようにしたらそれを体得できるのか?」と自ら問い詰めることが
ないものには教えようがない。
『興禅大燈国師遺誡』に「無理会の処に向かって究来(きわめきた)り究去(きわめさ)るべし」
とあります。言葉での説明や議論での解釈の仕様がないものを「何であるか?」と自ら
究めていく。そういう観点でもってこの「臨済録」に取り組んでいってもらいたいと思います。