三毒の他に仏なし
ー選仏場ー
円覚寺派管長・横田南嶺老師が今日の淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
むさぼり、いかり、おろかさという三毒を離れて、それらを全部捨ててしまえば、
仏になるのかというとそうではありません。「三毒の様子を自分自身よく観察すれば、
即ち仏性なり」です。「三毒、迷いの他に別に仏性なし」なのです。
例えば、氷のように凝り固まっているままでは、のどが渇いて水を求めている人には
何の役に立たない。だからといって、それを捨ててしまう必要もない。氷をとかせれば
同じものがのどを潤すいのちの水に変わります。
心も同じです。三毒という固まりをとかして、執着をほどけばそれがそのまま仏心、仏性です。
大勢の人のいのちを奪ったあの津波の海とたくさんの魚やわかめが捕れる海とは、別物では
ありません。同じ一つの海です。津波のような目に遭おうとも「もう、あんな海はいらない」と
津波を起こした海を全部捨てて、新しい海を求める必要は全くありません。荒波がおさまれば
そこではまた、魚やわかめを収穫することができるのです。
私たちの心もむさぼり、いかり、おろかさの三毒に燃えて執着して凝り固まってしまうと
迷いの状態にあるといい、逆に坐禅をして静かに心をおさめれば、同じ心がそのまま
仏の心となるのです。何も仏を外に求める必要はない。
迷い、固まりがとけて心が静かに穏やかになれば、その心を仏、慈悲と呼んでいるのです。
ですから、三毒の心も仏の心も同じ一念、同じ心なのです。
それでは、この一念をいかにしておさめていくか?であります。その一番の手だては
迷い、執着が起こる様子を自分ではっきりと観察して知ることです。それが迷いを
離れる方法です。なぜなら、迷っているということは、迷いの中にあって、自分が
迷っていることすらわからない状況をいうのですから。
こういう風に迷い、執着が起きてくるのかと自分で客観的に冷静に観察をする。
そうすれば執着から離れとらわれることがなくなります。自然と何もひっかかることの
ない穏やかな心になっていく。それが私たちが持って生まれた仏心・仏性です。
本来の心になればあらゆる分けへだて、差別はなくなります。
今の世の中は、憎しみ、ねたみ、報復といった心が凝り固まっている状態です。
凝り固まっているから、お互いに衝突をしてしまう。
凝り固まったものをといていかなくてはなりません。何ものにも執着しない心を
育てていくことが大切であります。