空気のように
ー先日、円覚寺・大方丈にて行われた日曜坐禅会の様子ー
円覚寺派管長・横田南嶺老師が先日の日曜坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
私たちが、生まれてきたことは、何も私たちが頭で考えた結果、生まれてきた訳ではない。
今こうして生きていることも、頭で考えているから生きているというより、自然の働きであります。
朝、食べたものを消化していく、程よく年をとっていく、やがて自然と何かしらの病気になり、
思うようにいかずに死をというものを迎えていく。それが自然の働きです。
頭の中で余計なことを考えさえしなければ何の問題も起こりはしない。私たちがこうして
生きて活動している様子は大自然の働きそのものです。これに解釈を加えたり、余計なことを
考えてしまうと隔たりができてしまう。
「仏の真法身は、なお、虚空のごとし」です。本当の仏の心というものは虚空(大空)のようなもの。
虚空のようにとらえどころがないものですが、そのとらえどころがないところに、また、
素晴らしい働きがある。
詩人・坂村真民先生に「空気のように」(坂村真民全詩集第4巻p371)という詩があります。
{空気のように
空気のようになる!
そうですね。
空気のようになり
どんな人の胸の中にでも入り
四六時中その人を守り
その人の力となり
その人を幸せにしたいですね。
吐く息吸う息の中に
大宇宙のいのちがこもり
生かされて生きるありがたさを
知らせてくれますものね・・・}
空気のごとくあらねばなりません。普段の私たちのように姿、形、教えだ何だというような
固定したものにとらわれているばかりでは、お互いは衝突し行き詰まってしまいます。
お釈迦様は、一枚の布を示して「これをどう見るか?」とお尋ねになりました。
そして、自ら云く「一枚の布を結んで、結び目を作ってしまえば、もうそれ以上ものを
包むことはできない。しかし、その結び目を解いてしまえばもとの広い布となり
どんなものでも包むことができる。」と。
結び目がある布も、結び目がなく広くひろがる布も同じ布です。
私たちは その結び目(とらわれ)を一つ一つ解いていけば、自然と
広く広がる布(仏心)であると気がつくのです。
真民先生の「空気のように」の詩には、こういう終わりの言葉が続きます
{それにしても核とか
原発とかで汚されない
透明な空気にするよう
力を合わせて叫びましょう}
東日本大震災の原発事故が起こる何十年も前にこの詩を書いています。
「空気のようになる」「仏は真法身は、なお、虚空のごとし」です。
空気のように、虚空のように広い本来の心を学ぶ。黄檗禅師は、この学ぶことすら
余計なこと、本来、みな、この虚空のごとくどこまでも広い心であると仰せになって
います。
それとは逆に、自分だけの世界を作ってそれに閉じこもってしまい、
その中の教えだけを頑なに信じていると周りの人と諍いを起こし
悩み・苦しみの原因となってしまいます。
そうではなく、少しでも大きく広い世界に目覚めていくのが何よりも
混迷の今の時代に必要なことではないでしょうか?
(後記)
次回の日曜坐禅会(第1,3,5日曜日 8:05~9:30)は、
3月1日(日)です。横田管長による伝心法要という禅の語録の提唱(講義)も
予定されています。どなたでも(坐禅が初心者の方も)安心して参加することができます。
皆様のご来山を心よりお待ちしております。