東西霊性交流3~4日目
-土曜日、晩の坐禅-
修道士さんらには、一昨日の土曜日の晩から日曜日の午前中にかけて、
毎週行われている土日坐禅会(時間 土17:00~翌10:00 場所:居士林)
に参加していただきました。
-茶礼(されい)-
-晩課(夜のお経)-
-日曜日、朝の坐禅-
-粥坐(朝食)-
-日天掃除-
修道士さんらにはこのあと土日坐禅会の方といっしょに日曜説教会に参加をしていただきました。
そして、終了後、土日坐禅会の方との懇親会となり、様々な質疑応答が交わされました。その一部を
参加者の方がまとめてくれましたので掲載します。以下
「修道士のおふたりがドイツのご出身だと知って、私も少しご質問をさせて頂いたのですが、次のようなお話が印象的でした。
(M=マクシミリアンさん/A=アレクサンダーさん)
・善悪、生死などキリスト教文化では二元論的に考え、仏教では一如ととらえるといわれているが
⇒二元論的だったのは昔のキリスト教の、それも特定の宗派でのこと。現在は違う。(M)
・西欧では「無」をネガティヴにとらえ、仏教では大事にすることについて⇒自分たちにとっての
無は確かに暗い穴のようなイメージだが、しかしキリスト教者としてそこにも神がいると感じる。
また仏教にとっての無とは、意識を逸らせるものを落としていって自由になることだと思った。(M)
・(円覚寺で参禅しての印象を訊かれて)多くの人が集って座禅をし説教を聴いている様子をとても印象深く感じた。(M)
・(修道士になった動機を訊かれて)修道院に偶然立ち寄り、気持ちが落ち着きここが自分の場所だと感じたから。
もう30年前のことだが。(円覚寺ではどう感じたか訊かれて)自分の場所にいるような落ち着いた気持ちと、
異なった行に神経を集中することからくる慣れないところにいる気持ちとが半ばしていた。(A)
・自分たちにとっても大事なのは「ひことつになること」であり、神という言葉を使うかどうかだけで、
仏教もキリスト教も変わりはないと感じた。(A)
この「仏教もキリスト教も変わりはないと感じた」という思いは後で個人的に短くお話ししたときにも
おふたりが重ねて仰っていました。」